もちろん、すべて嘘なんだけれど

家の庭にはいろいろな生き物が居る。ぼくは生きているものが好きだから(死んでいるものも好きだ)そのこと自体は嬉しいのだけれど、苦手な生き物も大量に居るのが困ったものだ。直接は害がなくても苦手な生き物、直接害がある生き物、それこそ何十種類となく住んでいる。春になるとその連中がいっせいにもぞもぞ地面から這い出してきて、この時期、朝、雨戸を開けるのはそれだけで恐怖に打ち勝つ英雄的な精神力が必要だ。目を向けなければ良いと思うかもしれないけれど、苦手な生き物発見センサーはオートサーチ機能を停止できないので、目が勝手に動いてどこにいようが必ず彼らを探し出してしまう。庭の朽ち木にはサルノコシカケが生えていて(生えているというのかな)、特にそのあたりにはいろいろな生き物がやってきて腰を下ろしていたりする。いやほんとうに座っている訳ではないけれど、いかにも居心地良さそうにのほほんとしたりしているのを見ると、やっぱり腰かけているのかな、などと思ったりもする。農学の博士号を持っている人間としては致命的に土と有機物が苦手なので、ぼくがそれらの情景全体を愛でることができるのは、あくまでガラス越しの安全圏からのお話。だいぶ以前、相棒が家に来てくれて梅の木に登り実をもいでくれたときには、彼女が傍に居る限りはぼくも防御力アップ的な感じで一緒に庭に出ることができた。でも心の中では、苦手な虫が足にでも這い登ってきたらもう彼女と一緒に死のう、などと思っていた。

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他のプログラマが作ったプログラムがあり、それにどうやらバグがあるらしい。緊急で調査しなければならないのだけれど、作った担当者はもう居ない。結局、ぼくがその調査をすることになった。とはいえ、この仕事をしているひとなら分かってくれるだろうけれど、仕様書もない、設計書もない何万行というプログラムを数日で解析してバグを直せ、などということは不可能だ。ぼくはそもそも論理的思考というものが苦手だし、プログラミング言語を魔法か何かだと思ってこの二十年近くコンピュータと向かい合ってきた。ただ、これは無茶な要求に対しては意外に有効で、よほど才能があるのではない限り、ロジカルに問題を追うのにはロジカルに妥当な時間がかかる。けれども魔術に頼るぼくの場合は、ほぼ瞬間的に問題個所を見つけることができるか、あるいは火炙りに遭うかのどちらかだ。そんなこんなで、まっとうな調査は端から諦め、InとOutで不具合をひっかけられるテストプログラムを組み込んだ。そのテストプログラムは何時間かに渡りテスト用のデータを送り込み、出てくるデータを監視してくる。優秀な使い魔みたいなもの。その使い魔が一生懸命働いているあいだ、こっそり論文を書いていた。ものすごく眠いなかでこんなことをしていると、頭の片隅で自分が担当しているプロジェクトのプログラム構造を考えつつ別の片隅で論文を書き、また別の片隅はモニタ上に現れた別の世界の幻覚を眺めていたりする。そんなことをしているうちにビープ音がなり、使い魔がバグを見つけて抑え込んだよと教えてくれる。そうなってしまえばバグを消すのは簡単だけれど、幻覚の中でそのバグは生きてもぞもぞ足掻いているのでふと哀れになり、少し形を変えて無害にしつつさらに安全な迂回ルートを作ったりしてそのまま野に放つ。

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昨晩の零時まで論文を書き、書き上げ、送信してしまった。だから、もう次の論文の準備を始めなければならない。いまは様々な分野に跨り、というよりも分野など無関係に、雑音についての資料を集めている。何の意味があるのかはまだ自分にも判然とはしていないけれど、自分の嗅覚は信頼している。ぼくの書く論文は、大抵、ネガティブなことばかりと言われる。そういう阿呆な意見につき合うほど暇な人生を送ってはいないけれども、そもそも、ぼくは彼ら/彼女らのいうポジティブ/ネガティブという言葉の意味がよく分からない。表層的な楽しさが実は人生における真の喜びに直結していることもあるし、ただ無意味な享楽に過ぎないこともある。苦しみのなかにこそ存在することへの喜びが隠されていることもあるし、救いのない苦痛のなかで死んでいくこともある。魂の次元での言葉を、肉体の次元での言葉に透かして書き込むことさえできないのであれば、そのひとはもう、少なくともぼくにとっては、哲学者ではない。

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在るということは、決して楽しいことでも、明るいことでもない。だけれども同時に、そこにある苦しみや恐怖によってこそ、ぼくらは存在していることへの真の喜びを感じることができる。ぼくはそんなふうに思っているし、そんな論文を書きたいと、常に願っている。

その時幽霊が喋り出す

相棒とおそろいのPHSを購入した。持ち込みで機種変更をしなければならないのでまだ使えないけれど、シンプルなストレート端末で質感もしっかりしているし、通話の音質が高評価の機種なので楽しみだ。おそろいの端末というのも、会社に入ってしばらくしてPHSを買ったとき以来だから、何となく嬉しい。PHSは、もうどんどんサービスが縮小していく方向だし、これが最後の機種になるかもしれない。たぶん十機種近く使ってきたのではないかと思う。データ通信用の端末も含めたらもっとかな。寂しいけれど、仕方がない。でも、いわゆる携帯電話の頭がおかしくなるような音質など冗談ではないし、スマートフォンも個人的には趣味ではない。だから、どうにかして、次世代のモバイル通話デバイスが現れるまでPHSで粘ろうと思っている。無理か。でも、この機種はトランシーバーにもなる。PHS回線がサービス停止になっても、散歩に出かけたとき、わざと少し離れた道を歩きつつ、ふたりでこっそり会話を交わそう。

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最近、少しずつ父の遺した書類の整理をしている。いらないものはシュレッダーにかけてしまう。ときおり、面白い書類があったりして、そういうのは個人的にとっておいたりする。先日はアメリカの地図を発見した。アメリカ大陸発見。何様のつもりだ(突然の逆鱗スイッチ)。

覚えているひとがいるかどうかは分からないけれど、昔経産省が情報大航海プロジェクトなるものをやっていた。情報大航海! こういう言葉のセンスのなさにはほんとうにがっくりする。どのくらいがっくりするかというと、この前東京駅近くを歩いているときにふとこのプロジェクトのことを思い出して、思わず膝をついて「もうダメだーっ!」と叫んでしまったくらいにがっくりする。近くを歩いていた白人男性が驚いていたので、「HARAKIRI!!」と叫んで逃げた。せめて「SEPPUKU!!」だろうといまにして思う。でもどうなんだろう、経産省の役人が「俺たちは情報化時代のスペイン人だぜ、モラベックのいう電脳生物たちを隷従させるために税金を無駄に注ぎこんでこの電子の海に乗り出すんだぜへいへい!」とか本気で思っていたとすれば、それはそれで、ちょっと狂気じみて突き抜けているかもしれない。

もうひとつ、最近ひどくがっかりしたこと。SONYと東大が人間拡張学なるものを立ち上げるという記事を読んだ。例にってギブスンのニューロマンサーが、何も分かっていないような阿呆な引用をされている。「私はまったく文学が分かりません」ということを高らかに宣言して恥じることがないというのは、確かにひとつの才能ではある。ではあるけれど、ぼくはそんな能力はいらない。驚くほど無能な連中が恥もなくメディアについて、人間について語る。最近、研究者という人種の99.99%は、要は言葉を使えない可哀そうなひとたちなんだなということが分かってきた。それは奢っているとかいうことではなくて、単純に、絶望的だし、恐怖しかない。

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それはともかくアメリカの地図の話だ。これは面白かった。ちょっと独特の立体感のある手書きの地図。どんな使い道があるのかは分からないけれど(何しろカナダからメキシコに至る広大な土地が描かれているのだから)、例えばルート55がどこをどう辿っているのかとかは追えるし、小説でしばしば目にするけれど、周辺にどんな山脈や川があるのかなどを知らなかった街を見つけたりすると、とても楽しい。あまり見ない感じの地図なので、父はいったいどこで買ったのかなと思って調べてみると、オールドフリーポートという会社が販売していたらしい。残念ながらいまではもう営業はしていないようだ。法人登録されている情報から住所を調べ、google mapで見てみても、該当するような店はなにもない。もしかすると個人の住宅で何かしら営業しているのかもしれないけれど、そうだとすると父が何故それを知ったのかが分からないし、この時代、サイトもなしに営業しているとは思えない。だから、いったいどんなお店で、どんなふうに父がそれを見つけて地図を購入したのかは、もう想像するしかない。

彼女とふたりで地図を広げて眺めながら、ネットには実はまったく情報ってないよね、と言う。当たり前でしょ、と言われる。二人でゆっくり、指でルート55を辿っていく。

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次の論文に向けて資料を集め始めている。そういうときにふと目に入ってしまう本というものがあり、ついつい買ってしまったりするので、結果、自分の周囲が大変なことになっていく。あと5日でいま書いている論文を仕上げなければならないので、趣味の本を購入してにやにやしている場合ではないのだけれど、まあ仕方がない。だって本読みなんだもの。ものもの。MONONOFU!! きょう買ってしまったのはシュテン・ナドルニーの「緩慢の発見」(浅井晶子訳、白水社)。まだ読んでいないけれど、けっこう良い本なのではないかという予感がある。

でも、趣味の本と言いつつ、それだけではないようにも思う。ぼくも、結局のところ極めて限定された属性に縛られている人間なので、いくら手を伸ばしたところで、手に入れられるのは手に入るものだけだ。それでかまわない。ここまで書いてきたことのすべてが、どこかで通底している。その通奏低音に耳を傾けると、不思議と、自分の研究が浮かび上がってくる。それを正確に測量して、論文に書き起こしていく。

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そうそう、そのマップ、まだ売っているのは発見した。
http://www.wall-maps.com/UniqueMedia.htm
この会社、他にもいろいろな地図を売っている。大航海なんてものに興味はないけれど、父が買った地図を売っている店をネットで見つけてみたりして、そんなことの全体に、何てことないおかしみや寂しさを感じたりしている。

ただしスタバは除く

あと二週間ほどで論文を仕上げなければならないのですが、そしてもう仕上げの方向性も見えてはいるのですが、なかなか、気が重いことばかりあったりすると、この最後の仕上げというのが難しいのです。けれどもこの論文にはほんとうに力を入れているので、とにかく、すべての浮世の雑事を切り離して彼女と論文合宿をし、良いものを書きあげようと思っています。論文合宿。何とすばらしい響きでしょうか。まるで昔の文豪たちが鄙びた温泉街の宿に逗留し、文学史に残る作品を残してきたその歴史の一端に連なるかのようではありませんか。まあ実際は、髪もぼさぼさ、髭も剃らず、自室にこもってひたすらキーボードを叩き続けるだけに過ぎないのですが。とはいえ、とにかく書くことだけは好きですから、この論文合宿は楽しみなのです。ここ最近はメディアアートにも目を配っていたので、そんなことも胡散臭く交えつつ、この機会を与えてくれた仲間たちにも恥じないような原稿を書き上げようと思います。それに、やっぱり彼女にも、かっこう良い哲学者だと思われたいしね。単にいつでも頭痛でふらふらしているだけのデクノボウではない。こともない。

けれど、なかなか現世の生活も厳しく、仕事と家のことと学会のことと、あとまあ大宇宙のこととかで手いっぱいで、家に帰るとぐったりしています。研究のことだけを考えていられれば幸せなのですが、そういう人生は送れそうもありません。でも案外、そんな生活を手に入れたら、特にぼくの研究テーマの場合は、あまり面白いものは書けなくなってしまうかもしれませんね。屑みたいな、というより、もう、はっきり人間の屑が屑らしく生きているなかでこそ生まれる研究。それはそれで面白そうじゃないですか。

研究って、最近特に思うのですが、お勉強ができるだけのひとには決してできないものです。いや、これは結構難しくて、例えば建前世界でこういうことを言えば、賛同してくれるひとって、いるんですね。でもリアルにアカデミズムの世界に入ると、ただただお勉強ができる延長線上でボス争いやブランド争いをしていたりする。そういう二面性はあります。あと、恥知らずにも研究はできない。でもこれって同じことです。恥を知るということは何かというと、どこかで、圧倒的な「ほんもの」に出会ったことがあるかどうかによって決まるのだと、ぼくは思います。そうして、もしその「ほんもの」の「ほんもの性」を真に感じ取ることができるくらいの、せめて感性があれば、自分の小利口さなどが如何に塵芥のようなものであるかも分かるはずです。それは本でも良いし、映画でも良いし、絵画でも音楽でも友人でもある一瞬の光景でも神体験でも何でも良い。それを知らない研究者は、基本、信頼できません。

などと言っているとどんどん居場所がなくなっていくのですが、幸いなことに、ぼくは子供のころになりたいと思っていた天文学者にはなれなかったし、大統一理論を探究するぜと言って素粒子物理学の道に進んだりもしなかったので、基本、巨大な実験装置は必要なく、ペンと紙さえあれば、どこでだって研究はできます(ただしスタバは除く)。言い古されたことではありますが、でもまあ、哲学をやるのなら真理ではある。だけれども案外、ではほんとうにペンと紙しかない状態で研究できる奴がどれだけいるかって言ったら、実際にはそんなにいないです。文献がないとダメとか。無論、それは悪いことではなくてまっとうなことだけれど、でも、過去の哲学者の残した哲学書を研究することと、彼ら/彼女らの残してくれた哲学そのものと取り組み対話をするということとは、同じ研究であっても、まったく違いますよね。それは決して奢っているということではありません。むしろ、少なくない哲学研究者たちがしばしば見せるあの異様なプライドこそ、先人の遺してくれた哲学をただ喰い散らかしていることを恬として恥じない、驚くべき驕りでしかないとぼくは思っています。などと言っているからどんどん居場所がなくなる。

でももともと居場所なんてないのです。大学も学会も、端から居場所なんてものではない。それを勘違いしてはいけない。もしあるとすれば、ペンによって紙上に世界を描きだすように、居場所自体も自ら作りださなければならない。そんなこんなで、いま彼女と、壁がぜんぶ本棚になっているような、居心地の良い部屋を作ろうね、と計画しています。それは参考文献がどうとかいうことではなく、本が、ぼくらにとって「ほんもの」のひとつだからこそです。哲学なんてどこでだってできるけれど(ただしスタバは除く)、ぼくらが真に自分が書くべきものに立ち向かう力を借りてくることができるのは、「ほんもの」を措いて他にないのですから。

イントロダクション オブ ストリックランドツアー

数少ない、尊敬できる研究者仲間にしつこく声をかけ、新しい研究活動をしようよと誘っていました。誘うだけ誘って、人望ゼロのクラウドリーフさんには具体的に何もできることがないというのがクラウドリーフさんの人間性の最悪さを良く表しています。でも、誘った相手は非常に人間的な魅力がある男なので、彼を通じて思いもしないようなジャンルの研究者と知り合えるかもしれず、それが楽しみです。でも実際に知らないひとに会う段になったら、コミュニケーション能力に重大な欠陥のあるクラウドリーフさんは、恐らく冷や汗100%の非清涼飲料水的何かに変ずるのであろうなあ、といまから嘆息してもいます。

嘆息といえば、相棒に連れられてジーンズを買いに行きました。ぼくの後ろ姿のあまりの格好悪さに、さすがの彼女も驚愕したようです。長いつき合いなので、彼女が冗談で言っているのかほんとうに呆れているのか、だいたい10%程度の確率で分かります(全然分かっていない)。まあともかく買いに行ったのですが、ジーンズ、っていうか、スキニーっていうのを買わされたんですけれども、これってジーンズの一種なんですかね。まったく不明ですが、ともかく、裾上げというのを数年ぶりにしてもらいました。もうそのくらいファッションモンスタ。プログラマなので長音使わない。ビニルハウス。でもあれですよね、服を売ってるくらいだから、売っているひとだって、こう、ファッションに拘りがあるじゃないですか。知らないけれど。そんなひとに裾上げしてもらうって、もうそれだけで拷問ですよね。ああもう俺牛の糞だよな、前世もそうだったもんな、来世もそうなんだろうな。そうして受取証に書いてある股下何cmという記載を見て愕然とします。足みじかーい! 腸ながーい! 野菜消化しやすーい!

そんなこんなで農耕民族の誇りに目覚めつつも、数日後にスキニーとやらを無事受け取り、さっそくぴっちぴちのふくらはぎをひけらかしつつ会社に履いて行こうとして彼女に止められます。えー、平気だよー。えへへ。可愛く笑い、強引に彼女のディフェンスを突破して出社しようとします。っていうか、もう最近はそれでずっと通っているのですが、どんなもんでしょうね。周りのひとは皆(当然ですが)スーツなので、クラウドリーフさんの社会的寿命もそろそろ尽きるのではないかと思えるのですが。

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先日、相棒の高校時代からの友人と三人で遊びに行きました。途中から頭痛が始まってしまったため、もう最後の方は意識も記憶もほとんどなかったのですが、それでも、古くからの友人と居て自然体で過ごす彼女を見るのは、それだけで心が和むものです。研究のため・・・なのか何なのか、またICCに行ってきたのですが、作品を眺めている彼女の立ち姿を眺めていると、まあだいたい、それだけでも生まれてきた甲斐はあったかな、という気がしてきます。彼女たちふたりで立っている姿を見ると、ちょっと、高校時代の彼女たちの姿が見えてくるような、実際はもう頭痛で視界も歪んでいるのですが、そんな気がして、微笑ましくなったりもします。

昨日はひさしぶりに頭痛が激しくなってしまい、帰宅後にすぐ倒れ、夜中に起き上がってしばらく作業をしていました。今朝は今朝で早くから動き始め、三月末には出す予定の研究雑誌の表紙を作っていました。ほんとうは掲載論文のほうを完成させなければならないのですが、ここ一年の研究成果をすべて注ぎこんだもので、ちょっと間合いを置いてから読み直さないとなのです。表紙は、自分でも納得のいくものができました。来週末には雑誌発行前の最後の打ち合わせがあるので、それまでに自分の論文説明用にレジュメを作らなければですが、少し一安心というところです。この研究会は、ぼくが哲学をやっていると言える唯一の根拠を与えてくれる、シリアスでシビアでシベリア(お菓子)な集まりなので、楽しさ半分、魂削れる半分です。けれども、この研究会の仲間も研究を共にしていると言える数少ないひとたちで、それはぼくのような社会不適応者には過分な幸運です。

ICCの展示は相変わらず糞が9割という感じでしたが、RGB|CMYK Kineticは良かったです。あれを一時間ほどぼんやり眺めているだけでも、入場料の価値は十分にあるでしょう。ぼくらの世界を超えた別の次元に在る何かの投射体としてのぼくらの一瞬で儚い生を感じつつ、その次元にさえやがて静寂が訪れる。その全体をいまここに居るぼくが目を瞑って眺めている。たぶん、そんなときにこそ、ぼくはいちばん、自分が自分の為すべき研究を追いかけていることを実感するし、その光景の全体のなかに彼女が居ることをほんとうに幸福に思うし、そこから生み出される言葉を研究として理解してくれる仲間が居ることをほんとうに幸運に思うのです。

大変なことばかりだけれど、まあ、何とかなるさ。

Yours sincerely,

ありがたいことに、研究仲間に声をかけてもらい、とある大学で行われる国際フォーラムなるもので発表する時間をもらえました。といっても20分から30分程度のものなので、挨拶をしていたらだいたい終わります。コンニチハ! 挨拶は大事です。ぼくの場合は、「挨拶だけはしていたけれど、得体は知れませんでしたね」と言われるか「挨拶もしないし得体は知れないし、いつかは何かしでかすと思っていましたね」と言われるか、そのくらいの違いはあります。どちらにせよ逮捕はされる。それはともかく相棒に「きみはせめて自分の身体にあったサイズの服を着ればまだましに見えるんじゃない?」と言われているので、まずはフォーラム前にその辺りから改善していく必要があります。そんなこんなで、昨日は仕事帰りにヨドバシカメラに寄り、まずは鞄を探しました。何故服ではなく鞄なのかといえば、鞄は鞄で、ぼろぼろなのです。自分だけのことであればスーツなど着たくもありませんが、ぼくは何よりもまず義を重んじる人間なので、今回は呼んでくれた仲間の面子もありますし、きちんとスーツを着ていくつもりです。しかしそうすると、それに合ったコートも鞄もない。いま使っている鞄ときたらもう、祖父の形見どころか縄文時代の遺物か、というくらいに古い。気に入っているんですけれども穴だらけで、服がこのレベルだったら事案発生です。ヨドバシでカメラバッグを延々一時間ほどじろじろ眺めていたのですが、どうもこれだというものがなく、諦めて帰ってきました。ナショジのバッグは文句なく良いのですが重い。この年になると重いバッグはつらい。

でもまあやっぱりナショジかな・・・、と思いつつ、きょうは別の用事があり新宿へ出たのですが、西口を出てヨドバシ方面に行く半地下みたいなところでよく物産展みたいのやっていますよね、あそこで鞄を売っていたのです。そこで、まあこんなところで良い鞄もないだろうなあ、と特に根拠もなく諦めつつ覗いてみたら、一目見て気に入った鞄がありました。出会いというのは不思議で面白い。帆布工房というところの製品です。青い色の帆布がとてもお洒落で、作りもしっかりしているし、軽い。例によってしばらくはじろじろしていたのですが、でも結局買いました。売り場のおじいさんが「小僧、鞄を買ったら、まずは防水スプレーでもかけるんだな」と言います。「コンニチハ!」ぼくは唐突に挨拶を返します。それにしても良い色です。ひさしぶりに、買ってもまったく後悔のない買い物で、いまはちょっとほくほくしています。あとはコートを買えば何とか形になるでしょう。そういえばネクタイも碌なのがないな。唯一使えるのは会社員時代のものなので、もうかれこれ二十年近く前に買ったものです。天平の甍、などという単語が唐突に頭に浮かびます。まあネクタイは良いでしょう。いざとなれば昆布でも巻いておけばよい。マリンブルーの昆布を見ると、ぼくはいまでも漁師だった祖父のことを思い出すのだ。彼はタカアシガニと格闘して死んだ。タラバガニがヤドカリの一種だとは決して認めない男だった。「だってカニでしょ!」「コンニチハ!」

きょう新宿へ行ったのは、ひさしぶりにICCの企画展で展示されている「デジタル・シャーマニズム」とかいう作品を観ようと思ったからでした。自分の研究にかかわる、けれど非常に糞っぽい内容のように思えたので、それが糞であることだけを確認しに行き、やはり糞であることを確認して帰ってきました。作品と書いてしまいましたが、作品以前の質、芸術以前の質で、ほんとうに困ります。「魔術や信仰、科学やテクノロジー、この両者は、相反するもののように見えて、どちらも「ここにはない何か」を現前させたり、そう感じさせたりする、という性質において、じつは極めて親和性が高く[以下略]」(http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2016/emergencies-030-ichihara-etsuko/)などと書いた挙句、出てきたモノが、いまどきおもちゃ売り場にもなさそうな安っぽいロボットで、頭に触れると聞くに堪えない陳腐な台詞を喋り出します。ただ、作者の、いえこの作者に限らず現代アートとやらを語る大半のアーティストに共通の、異様に肥大した承認欲求が発する腐臭みたいなものは立ち込めており、そういった意味では確かに魔的なものがありました。信仰も科学もテクノロジーもなかったけれど。でも魔であるだけなら、そんなもの、この時代どこからでも漂ってくるものです。その魔の在り方がテクノロジーによってどのように根本的に変容したのか、それを批判するのであればまだしも、自分自身が取り込まれているのではどうしようもありません。ともかく、最初に予想したとおりの出来でしかなく、何もわざわざICCまで出かける意味はありませんでした。そして意味はないということを確認するだけでも、行ってきた意味はありました。先の「複製技術と美術家たち」と同様、今回も一人の探索行だったので、精神的にはそうとう疲弊します。けれども最近はがんばって一人で外出し、自分の論文にリアリティを与えるべく、じろじろと様々なものに目を向けています。

とはいえ、下らないものを見るのは大きなダメージになります。良い鞄に出会えなかったら、覚悟の上とは言え相当落ち込んでいたでしょう。いずれにせよ、フォーラムでは、メディアと魔的なものについて、お気楽にかつシリアスに喋ってこようと思っています。せっかくだから新しい鞄と一緒にね。

キル・キリイ・キル

学会サイトを更新しなければならないし、オンラインジャーナルを作らなければならないし、四日後が締め切りの論文をまだ一切書いていないし、明日の講義の準備もしていない。仕事は仕事で不具合の原因調査がまだ終わっていない。挙句に何だか面倒くさいメールが届いて、如何にして相手を傷つけず断ろうかと頭を悩ましているうちに頭痛が始まった。知恵もないのに知恵熱。これは脳が糖分を欲しているのだと思い、梅ジュースを作ったときに余った氷砂糖をばりぼり食べていた。

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昨日は研究会があり、いま一緒に研究をしているメンバーが互いの論文草稿に対して意見を言い合った。ぼくにとってはいま唯一本気でやっている研究で、だから、これを乗り切るとだいぶ気分が楽になる。もちろん、全然ダメだねということになるとそれはもうほんとうに全然ダメなので、相当に緊張する会合になる。逆に、多少なりとも評価してもらえるものを書けると、まだ自分も哲学をやっているのだなと思える。

当然、そのためには信頼でいる研究仲間であり、互いに認め合えるだけの原稿を持ち寄らなければならない。そういうことができる研究仲間を持てたのは、とても幸いなことだ。とはいえ、ぼくの場合、草稿の段階でかなり完成稿に近くなってしまっているし、だからもう、今回の論文は最終工程に乗せてしまい、次のテーマをもにゃもにゃと練っていかなければならない。頭の中で、混沌として、けれどずっしりとした質感を持って在るものを、少しずつ言葉を使って輪郭を描いていく。しんどくて、でもいちばん楽しい。

そんな訳で、きょうは部屋の掃除をした。ぼくはきれい好きな方だけれど、ここしばらくは異常な仕事量と私生活の方のどたばたが続いていて、ひどい状態だった。だから、時間をとって部屋の掃除をするのは、とても楽しいし、ほっとする。そうして、次の論文用に本の並びを構成し直すこともまた、とても楽しい。それは自分の頭の構造をチューニングし直すのに似ている。

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今回は講義がとてもつらく、ちょっと、学生たちにも申し訳なかったと思う。無論、意識的に手を抜くわけではないけれど、講義は、こちらの状態が隠そうと思っても如実に出てしまう。次の年度になったら、思い切りスタイルを変えてやってみようと思っている。どのみちこれで食べていくつもりもないので、非常勤の職を失ったところでどうということはない。というと真面目な研究者には怒られるけれど、少しくらい性格が破綻している講師がいた方が、大学なんてものは面白い。

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会合のとき、研究仲間に、最近出た辞典を手渡した。辞典なんてものは、それ自体は面白くもおかしくもない。特にぼく程度の能力しかない人間が書いた項目など、創造性の欠片もないものだ。でもまあ、手元に置いておけば多少は役に立つかもしれない。ともかく、遠くから来ていたもうひとりには、かさばるので郵送で送ることにした。きょうは掃除をしながら、Amazonの段ボールをばらして、ゆうパックで送るための箱に作り直した。本がぴったり入る箱を作ることができ、独りでにやにやする。こういう手を使う作業はとても楽しい。考えてみれば、文句を言いながらも、けっこう楽しいことばかりしている気がしてきた。まあいいか。

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形而下的なことを言えば、どうも、あまりぱっとしない生活だ。それでも、頭の中に何かが在って、言語化してくれろ、言語化してくれろ、と、いつでもぼくをせっついてくる。自分のペースでしか応えることはできないけれど、ここ数年、ようやく、それがナニモノなのか、少し見えてきたように思う。

言語化できないものを言語化すること、それによって本当に言語化できないものを手探りしていくこと、霧の中に一歩、いま踏み込み始めているのを感じている。

梅ジュース à gogo

去年の夏、彼女が家に来たとき、庭の梅の木に登り、梅の実を大量に採ってくれた。別に何か手を入れている訳でもないのに、毎年大量の立派な実がなる。父が居たころはこれで梅酒を漬けたり梅干しを作っていたりしたけれど、いまはもう誰も採る者もなく、去年はひさしぶりにちゃんと収穫した。虫が苦手なぼくも、彼女が傍にいる限りは対処してくれるという安心感があるので、役に立つのかどうかはともかく、何となく手伝いみたいなことをした。大量の梅はそのままリュックに詰め、彼女の家に持っていき、そこで彼女に梅酒を漬けてもらう。500g分は自分の手元に置いておき、余裕ができたら梅ジュースにしようと思ったまま、早半年。きょう、ようやく梅ジュースにした。

梅ジュース自体はあっという間にできてしまう。1リットルよりも少しだけ作り過ぎた分を飲んでみた。少し甘さが強すぎたけれど、それでも、初めての試みにしては良い出来だ。梅特有の酸っぱさも程よく効いている。

今年の目標は、まっとうな生活者になること。生活者とは、太宰が嫌悪したお汁粉万歳の生活を送る者ではなく、銀河鉄道の夜のラストにおけるジョバンニの立ち姿のような生き方を送る者をこそ意味している。ぼくのような落ちこぼれの社会不適応者にはとても難しいことだ。でも、それは、くだらないアカデミズムのなかでどうこう立ち回るよりも、遥かにやる価値のあることだ。