運が良ければ自転車でも行ける距離だ

3月以降だろうか、あまり研究が進んでいない。いや、進んでいないということはなく、ぼくのようなタイプの研究者の場合、基本的なところはとにかく生きているだけで、いろいろなものが頭蓋骨のなかに吹き溜まり、その埃の塊から何かが生まれてくる。ほとんど神話のようなものだ。そういった意味では研究から離れるということはない。引きこもり気味のコミュニケーション障害持ちにもかかわらず、軽薄なメディア系のイベントを覗いたり、ドローンを飛ばして遊んだり(?)、意外にいろいろ、きちんとメディアについて考えたりしている。だけれど、論文を書いていない。これは正直いかんいかん。でも学会仕事はもういやんいやん。

いやんいやんと言っても仕方がないので嫌々いろいろやっていたが、さすがにもう限界を超え続けて三千里くらいに達したので、だいぶ、ストレートに自分の屑さ加減を全開にしつつ、先生方からの依頼に対しても屑っぽく応答するようになってきている。根が屑なので、そういうふうに生きていると、ほっとする。

にもかかわらず声をかけてくれるひとたちも居て、それはほんとうにありがたいことだと思う。何故ぼくなんぞに声をかけてくれるのか、正直それは良く分からない。ぼくがぼくでなかったら、ぼくはぼくに決して声をかけたりはしないだろう。きっとそれは、ぼく、というよりも、ぼくにとり憑いているある種のテーマのようなもの、それに意味があるからだと思う。別に卑下しているわけではない。それどころではなく、あるテーマたちが実体化しようとするときの器にぼくがなったのであれば、それはぼく自身にとっての良し悪しを超えて、きっとたいしたものなのだ。

そんなこんなで、新しい研究会を始めるひとたちから誘ってもらえたり、客員研究員や非常勤の声をかけてもらって、まだまだ、がんばらなければなあ、と思う。

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きょうは、明日締切の書類をようやく書き終え、郵便ではもう間に合わないので、四谷まで出てコピーをとるついでに宅急便の配送センターまで行ってきた。ああいう秘儀めいた場所に入り、「宅急便送ってくだされい」などと言うのは、ぼくのように対人恐怖症が全裸で深海から上がってきたようなナニかにはつらいことだ(日光が! と叫んで溶ける)。とはいえそれは予想できたことなので、つらいはつらいでもどうにかできる。

ちょっと驚いたのは、とある地下鉄の駅で乗り換えようとしていたとき、自分が、そういった諸々のこと――たとえばこの地下鉄が何線でどこ方面行きなのかとか、自動で開く電車の扉とか、そういったあらゆること――を、何故理解しているのかが理解できなくなったということだった。もちろん、理性ではそんなことは分かり切っている。だからそれは、非常に脆い直観的な次元におけるもので、だからといって、輪郭が曖昧なわけではない。むしろ極めてソリッドなものだ。受け止めきれないほど巨大な、物理的な実感をともなった直観の塊。

それでも、無駄に長い人生経験のおかげで、別段混乱するでもなく、というよりもどのみち普段から混乱しているのだ、そのまま電車を乗り継ぎ、四谷に到着する。四谷は、大学院でも通ったし、そもそも最初の職場がその近くだった。だから、ずいぶんと歩き回った記憶がある。そうすると、さっきまでしつこくぼくのなかに居座っていた、何故理解しているのかが理解できないという感覚が、ゆっくりと消えていく。それは、単に「知っていて当たり前だから」、ではない。その違いがきみに伝わるかどうかは分からないけれど、それは、その場所に、ぼくが彼女と歩いた記憶、ぼくが歩いた記憶が刻み込まれているからだ。その「あたりまえ」で構成された世界に、自分がぴたりと嵌りこむのを感じる。

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それから、そうだ、きょうは、中古だけれど、ビデオカメラを注文していて、それが届いた。手振れ補正が強力だというSONYのHANDYCAM PJ630V。確かに手振れ補正は強力過ぎて、片手に構えて家のなかを歩き回ると、まるで夢のなかの光景のように、気味の悪い滑らかな動画になる。

ビデオカメラを置いてみる。考えてみれば、普段自分に視えている光景も、同じように薄気味悪く滑らかだ。息をすることなく、海底をゆっくり自転車で走っている。

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