床に残る記憶

学園祭の時期ですね。いやもう終わったか。まあいいや。いま、ぼくは勉強することが好きでして、またとても楽しいとも感じています。それは自分が生きるということと自分の研究テーマが、極めて強く結びついている、結びついてあるようになったからだと思います。呼吸をするように研究テーマを考えることができるようになって、だいぶいろいろと楽になった気がするのです。最初の大学では情報科学というものを形ばかり専攻していましたが、このときは辛かった。周りの連中は、確かに優秀なのもいる。けれどではいったい彼らが何のために勉強しているのか、それが全然見えてこない。単なるマニアにしか見えないのです。そういう自分も結局は同じで、知識を自分の生にとっての武器にできていなかった。自分の魂を表現するものとしての学問を持てていなかった。だから中退したのはある種当然の結果であって、まあ適当にやって卒業して、良い企業に就職してさっさと結婚していまごろ役職についていて、もしかしたら子供もいて、そういう人生もあったかもしれませんし、それを否定しようとも思わないのですが、けれどやはりぼくはいまの人生を送らざるを得なかったし、それがぼくの在り方なのだなあといまは思っています。もちろんそれは現状肯定ということではなく、いまのぼくの生活には深刻な問題が多々ありますし、それには立ち向かっていかなければならないけれども。

何の話でしたっけ……。そうそう、学園祭です。だからいま、ぼくは学園祭というものにあまり関心がない。まあ当たり前でして、三十過ぎの男が「学園祭だーいすき☆」とか言っていたらそれはそれでちょっとやばい。けれども昔はぼくも学園祭が好きでした。学園祭そのものというより、そこでぼくらは人形劇を公演するのですが、それが楽しかったのですね。

先日、相棒とふたり、とある大学の学園祭を覗いてきました。ぼくらとは縁もゆかりもない大学ですが、たまたまやっていたのです。時刻はもう夕方で、ほとんどの企画や展示は終わりかけていたのですが、まだ校内にはその日最後の盛り上がりが残っており、その中を二人で歩きました。ただ、ぼくらはあまり賑やかなのは苦手でして、流されるように賑やかな表から裏側に入り込んでしまいました。そこは製作棟のような雰囲気の建物でした。その、ペンキ跡に汚れた床を見て、ぼくはふいに、昔自分がまっとうな大学生だったころのことを思い出していたのです。

大学時代、ぼくは相棒他何人かの部員と人形劇をやっていました。だいたいは子供向けで、たまに近所の幼稚園へ出張公演をしたりもしました。けれども学園祭では、どちらかと言えば子供向けよりも少し大人向けの演目をやることが多いのです。子供向けには子供向けの、学生向けには学生向けの、それぞれなりの難しさ、楽しさがあるのですが、まあそれはいずれ。

学園祭が近づくにつれ、当然ですが部室はだんだん修羅場になっていく。ぼくらは弱小な部でしたから、大抵脚本と演出は兼任になります。で、人形劇ですから人形を作らなければならないし、同時に役者も演じなければならないから台詞の通し練習や立ち位置の確認、発声練習もある。大道具小道具の製作もあるしパンフやポスターの作成もある。みんながひとり何役も持っているから、とにかくてんやわんやになります。手が足りないので、公演前になるとヘルパーさんも来る。狭い部室に作りかけの人形や大道具小道具、裁縫道具や工具が散らばり、ポスターやパンフの原稿、脚本も積んである。ベランダでは発声練習をする者もいるし、部屋の中では裁縫をしたり鋸で木材を切っている者もいる。何故か単に遊んでいるだけのやつもいる。

ぼくは、その雰囲気が好きでした。そしてもちろん、公演直前の緊張感、真暗なけこみの中にしゃがんでいるとき、あるいは音響/照明担当で開幕のタイミングをはかりつつスイッチに手をかけているときの緊張感も、あるいは舞台が終わり、お客さんのはけた後の客席にぼんやりと座っているときの開放感も好きでした。

だけれど、いま、ぼくの記憶に何よりも残っているのは、公演が終わりすべての後片づけが終わった後、再び見えるようになった冷たいコンクリート剥き出しの、部室の床なのです。そこには長年にわたってついた傷、塗料などの跡が点々と残っています。そして今回の公演準備の間についた新しい汚れや傷も増えています。ぼくはそれを見るのが好きでした。堅く、ひび割れ冷え切ったコンクリートに、けれど確かに、生き生きとしたぼくらの活動の跡が残されていたのです。

いま、もうその部室は使われていません。もしかしたら建物すら、すでにないかもしれません。けれどもし、あの部室をもう一度訪れることがあったら、ぼくはきっと、あの床を写真に撮るだろうと思っているのです。

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