逆アーティスト・イン・レジデンス

もう一年近くブログを更新していませんでした。この一年、ずいぶんといろいろなところへ行き、いろいろなものを見てきましたが、ぼく自身は何も変わっていないようにも思います。

いまは彼女と二人で住んでいる家を建て替えており、その間、友人の彫刻家の家に住まわせてもらっています。彼はいま日本に居ないので、ぼくら二人には広すぎる家の片隅で、ひっそりこっそり、人生におけるある特別なひとこま、ある種の逆アーティスト・イン・レジデンスのような生活をしています。一階には天井の高いアトリエがあり、そこで金魚を飼ったりしています。

この一年の間に二本、論文を書きました。一本は自分にとってメインの研究になるもので、よくまあ書き上げたものだと、後になって振り返れば二度とは書けないだろうと感じるほどの苦労しましたが、それだけのものにはなったと思います。あとの一本はつい最近書き上げたもので、いま流行りの、というにはちょっと古いですが人新世に関するものです。これは依頼原稿なのでどちらかといえば自分の興味とは別のもので、あまり尖ったものではないのですが、とにもかくにも研究者としての人生もそれなりには歩んでいます。

この前、建築中の家に、建築家と一緒に行ってきました。二階に上がる階段もまだなく、梯子を上るしかありません。するする登っていくフィールドワーカーである彼女の後ろを壊れたロボットのようによちよち這い登ると、そこには壁全面を本棚にした部屋の原型がもうできかけています。人文学をやっている者として、やはりあるところまでは本が必要ですし、本とともに在るような人間でなければまともな研究はできないとぼくは思っています。それは、過去の偉大な人びとの名前を借りて威を誇るようなことではなく、純粋に、かつて在った言葉とともに在れるか、ということです。これまでは頭の中にだけあった自分だけの図書館を具体化したこの部屋ができるのは、ほんとうに楽しみです。それは、手を伸ばしたところにその言葉が待っていてくれる、言葉がぼくを呼んでいるところに手を伸ばせるという、身体行動に直結した喜びです。

無論、いままでもそれは頭の中でやってきたことなのですが、けれどもやはり、書くということは本質的に身体的なことです。階段を上り下りするだけでもリズム感のなさが露呈するぼくのような人間でさえ、言葉には、あるいは言葉を書くという行為には、どうしようもなくリズムが伴う。だから書きながら踊ったりもする。そうすると頭がどうかしたのかみたいな目で見られたりもしますが、お金をくれない人の評価は気にしない! という最低なスローガンを掲げるのがぼくという人間なので、踊りながら論文を書くのです。けれどもそれは脳内に配置したぼくの手持ちの本と記憶された本へアクセスするための手続きで、この部屋ができれば、それをこの物理的な世界における表現へとシフトできるでしょう。

とはいえ、それはまだ先のお話です。その部屋ができる前に、まずは次の論文を書かなければなりません。というわけで彫刻家の家に本を持ち込み、本を買い込み、既にだいぶ積み上がってしまっています。手持ちの本でさえ、育った家と一時的に借りているトランクルーム、そしていまの仮住まいと三箇所に分散しています。それらを移動させたり掘り出したりしながら、脳内図書館と物理的な配置のマッピングを常に更新しつつ、新しい原稿を書き始めています。

ぼく自身は最近、研究というものは、あるいは論文を書くということは、ひとつのパフォーマンスアートなのだと思うようになってきています。ぼくはある種の全体論的なメディア論の立場を取るので、論文というものも、できあがった電子データなり印刷物なり上の言葉の塊というだけではなく、書いていたときのぎこちないダンスのステップ、ふっと言葉に呼ばれて本屋に彼女と行って一冊の本を手に取ったその瞬間、あるいは次の言葉のリズムが取れなくて「あああああああ」と打ち込み続けるその打鍵の音と感触のすべて、いやもっとたくさんのすべてだと感じています。無論、振り返ってみれば拙い論文ばかりですが、拙いと思うことと誇れることは両立します。誇れるというのは、ぼく自身の能力を超えてそこに在り、何かを語っている言葉たちに対する信頼です。

+ + +

ある日、彫刻家と話をしていたとき、ぼくの言葉は極めて攻撃的だと言われました。それは彼の活動を「対話」という言葉によってまとめた極短いステートメント(の叩き台)についてのコメントだったのですが、そのように指摘をされて、深く納得しました。どちらかといえば、というよりも露骨にぼくはコミュニケーションが苦手ですし、過剰な丁寧さによって薄気味悪がられるような人間です。他方で彫刻家は極めてアクティブでオープンな人間で(それが彼の本質というわけでもないのでしょうが)、ある面において徹底してオフェンシブな人間です。でも彼の言葉にはしなやかで強いオープンマインドネスがある。そして確かに、言われてみればぼくの言葉の本質は攻撃的です。それは相手に対しても、自分に対してもそうです。良いのか悪いのかということではなく、本質的なところで何かを壊そうとしている。というよりも、壊れないでいられると思っているものに対する憎悪と激怒と恐怖がある。

だけれども、所詮、そもそも人間の本質に善悪のラベルを貼っても、たいして意味はないでしょう。それが自分の本質なら、それとともに在れば良いだけのことです。そして、それがいちばん難しいことでもあります。

弾が一発しかなくても用を足すには十分過ぎます。他方で、弾が九十六発あれば、それはそれでやったぜ! と思います。だけれど構えるときのスタイルは一定で、狙って撃つということは常に一瞬で永遠です。どれもが本気で一回きりで、目指すは攻防一体の舞。いずれにしてもこの逆アーティスト・イン・レジデンスの期間に、自分のスタイルを確認できたのは得難いことだったと思います。