道路の上に、割れた器

彼女と、ひさしぶりに美術館巡りをした。巡り、というほど見て回ったわけではないけれど、栃木県立美術館でやっていた2Dプリンターズ、国立新美術館のジャコメッティ展、そして横浜のトリエンナーレ。トリエンナーレは狭い範囲でとはいえ複数の会場を回ったし、最後は大霊廟IIも聴いてきたので、それなりに体力を使った。もちろん、これらすべてを同時に回ったわけではなく、数日がかりで。基本的には自分の研究のため、と言いつつ、実際には、まあ、趣味だ。

とはいえ研究は研究で、だから客観的にならなければならないとは分かっていても、相当に落ち込んで帰ってきた。ありきたりの話、古い価値観の話で、こんなことを言ったら怒られてしまうけれども、ぼくはやっぱり、美というのは、その向こうに圧倒的な、超越的ななにものかがあって、器としての人間がどうしようもなくそれに憑かれ、突き動かされ、そのなにものかがその器にあふれ出す、そういった現象の全体が芸術なのだと思っている。でも、多くのものが・・・それはもはや芸術ですらなく・・・ただただ承認欲求を満たすためにむしろ「芸術」を器としてぬるぬると肥大化した自我をげろりと吐き出すために使っている、そんな程度のものでしかない。そのことに、ほんとうに、心底疲れる。トリエンナーレは、99%が屑だった。あんなものに大金をかけるのであればむしろ・・・、と思わないでもないが、仕方がないものは仕方がない。ただ、誰が何と言おうと、屑は屑だ。そう言い切ることも能力のひとつで、ぼくは、少なくともそのおかげで、いま、自分に恥じることのない研究をやっているのだということを知っている。

ジャコメッティ展では、おわりの方に近い一つの部屋で、作品を撮影して良いことになっていた。その部屋に入った途端、多くの人びとがスマートフォンやコンデジで写真を撮り始める。ちょっと、異様で、ぼくは怖くなった。シャッター音自体が、部屋を暴力的に満たし、あのなかでほんとうに芸術を写しとることができると信じているひとがいるのなら、恐らくだけれど、そのひとは芸術を必要としないひとだ。もちろん、写真を撮って良いのなら、それは撮れば良い。別段、ぼくはマナーの話をしているわけではない。すべてを記憶におさめることこそが素晴らしいのだとは思わないし、第一、ぼくだっていろいろなところに行って、いろいろな写真を撮る。だけれども、あの場、あの雰囲気は、確かにそういった状況を分析することこそが自分のいまの研究テーマのひとつではあるのだけれど、それにしても恐ろしすぎた。病的な反応だとか何とか、そういった反論があるのなら、それはそれで構わない。ぼくは善人ではないので、無駄な会話は、どのみち、しない。

国立新美術館のジャコメッティの作品は、無論、素晴らしかった。それはそれとして、トリエンナーレでは、個人的に非常に興味を持った作品がひとつあった。Ian CHENGの《使者は完全なる領域にて分岐する》というCG作品。人間性が完全に排除されているにもかかわらず、確かにそこに何らかの知性、世界を感じさせる。ほんとうにそうかどうか、ということではなく(ぼくはそもそもカーツワイル的シンギュラリティなど、阿呆の戯言だと思っている)、それを感じさせるだけの奥行きがあった。

あ、もうひとつ、作品に対する評価とは別の次元の話だけれど、大霊廟IIで自動演奏機械群に動力としての空気を送り込むためにふいごをぶーこ、ぶーこと踏みしめ続けるひとたちが居て、作家本人と女性アーティストのペアでぶーこぶーこしているのが、音楽よりも、なぜかとても良かった。まあこれは、ちょっと相当長文を書かないと、何が良かったのかを表現できないけれども。

それから、2Dプリンターズで、びっくりしたのだけれど、アンゼルム・キーファーの小品があった。やはりあれも素晴らしい。展示方法は酷かったけれど(2Dプリンターズは、残念ながら、企画が完全に失敗だったと思う)。

だけれども、上に書いた器、ということでいえば、Wael SHAWKYの人形劇作品、「十字軍芝居 聖地カルバラーの秘密」は圧倒的だった。本来の作品の一部上映らしいが、それでも2時間の上映時間。これは、とにかく胸を打たれる。機会があれば、ぜひ、見逃さずに、ラストまで見てほしい。音楽も歌もカメラアングルも人形も、とにかくすべてが完璧だった。ぼくが生半可な知識で神学について1,000時間語るよりも、あのラストの5分(そしてそれが生きるための、結局のところすべての上映時間なのだけれど)の方が1,000倍の意義を持ち、いや、意義などを超えて、神を伝えるだろう。人形劇はときおり、こういうとんでもない傑作を生み出す。

それで良いのかもしれない。1,000の器のなかで、ほんの幾つか、心を惹かれるものがある。芸術に限らず、論文も、小説も、音楽も、多くのものがそうだ。そんなことはあたりまえで、昔は、足で稼いでそれを見つけていた。いまはもうそれだけの体力がないけれど。でも、歩ける限りは、歩かなければならない。そうしなければ、自分の心自体が、どんどん衰弱していってしまうから。

この連休中は、大阪へ行き、そこでひさしぶりにじっくり、自分のほんらいの研究について仲間たちと議論してきた。今回の論文では、バイオアートについてだいぶページを割く予定で、これから年末にかけては、そういったことを意識しつつ、幾つかの美術展やイベントを観てくるつもりでいる。

ぼく自身も、願わくば、研究において、自分がひとつの器であるような在り方を目指したい。そうできるかどうかは分からないけれど、もしできないと分かったのなら、そのときは、潔くすべてをやめるべきだろう。その程度の覚悟なら、いま、それをほんとうに幸いだと思うけれど、自分のなかには最初からある。