もちろん、すべて嘘なんだけれど

家の庭にはいろいろな生き物が居る。ぼくは生きているものが好きだから(死んでいるものも好きだ)そのこと自体は嬉しいのだけれど、苦手な生き物も大量に居るのが困ったものだ。直接は害がなくても苦手な生き物、直接害がある生き物、それこそ何十種類となく住んでいる。春になるとその連中がいっせいにもぞもぞ地面から這い出してきて、この時期、朝、雨戸を開けるのはそれだけで恐怖に打ち勝つ英雄的な精神力が必要だ。目を向けなければ良いと思うかもしれないけれど、苦手な生き物発見センサーはオートサーチ機能を停止できないので、目が勝手に動いてどこにいようが必ず彼らを探し出してしまう。庭の朽ち木にはサルノコシカケが生えていて(生えているというのかな)、特にそのあたりにはいろいろな生き物がやってきて腰を下ろしていたりする。いやほんとうに座っている訳ではないけれど、いかにも居心地良さそうにのほほんとしたりしているのを見ると、やっぱり腰かけているのかな、などと思ったりもする。農学の博士号を持っている人間としては致命的に土と有機物が苦手なので、ぼくがそれらの情景全体を愛でることができるのは、あくまでガラス越しの安全圏からのお話。だいぶ以前、相棒が家に来てくれて梅の木に登り実をもいでくれたときには、彼女が傍に居る限りはぼくも防御力アップ的な感じで一緒に庭に出ることができた。でも心の中では、苦手な虫が足にでも這い登ってきたらもう彼女と一緒に死のう、などと思っていた。

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他のプログラマが作ったプログラムがあり、それにどうやらバグがあるらしい。緊急で調査しなければならないのだけれど、作った担当者はもう居ない。結局、ぼくがその調査をすることになった。とはいえ、この仕事をしているひとなら分かってくれるだろうけれど、仕様書もない、設計書もない何万行というプログラムを数日で解析してバグを直せ、などということは不可能だ。ぼくはそもそも論理的思考というものが苦手だし、プログラミング言語を魔法か何かだと思ってこの二十年近くコンピュータと向かい合ってきた。ただ、これは無茶な要求に対しては意外に有効で、よほど才能があるのではない限り、ロジカルに問題を追うのにはロジカルに妥当な時間がかかる。けれども魔術に頼るぼくの場合は、ほぼ瞬間的に問題個所を見つけることができるか、あるいは火炙りに遭うかのどちらかだ。そんなこんなで、まっとうな調査は端から諦め、InとOutで不具合をひっかけられるテストプログラムを組み込んだ。そのテストプログラムは何時間かに渡りテスト用のデータを送り込み、出てくるデータを監視してくる。優秀な使い魔みたいなもの。その使い魔が一生懸命働いているあいだ、こっそり論文を書いていた。ものすごく眠いなかでこんなことをしていると、頭の片隅で自分が担当しているプロジェクトのプログラム構造を考えつつ別の片隅で論文を書き、また別の片隅はモニタ上に現れた別の世界の幻覚を眺めていたりする。そんなことをしているうちにビープ音がなり、使い魔がバグを見つけて抑え込んだよと教えてくれる。そうなってしまえばバグを消すのは簡単だけれど、幻覚の中でそのバグは生きてもぞもぞ足掻いているのでふと哀れになり、少し形を変えて無害にしつつさらに安全な迂回ルートを作ったりしてそのまま野に放つ。

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昨晩の零時まで論文を書き、書き上げ、送信してしまった。だから、もう次の論文の準備を始めなければならない。いまは様々な分野に跨り、というよりも分野など無関係に、雑音についての資料を集めている。何の意味があるのかはまだ自分にも判然とはしていないけれど、自分の嗅覚は信頼している。ぼくの書く論文は、大抵、ネガティブなことばかりと言われる。そういう阿呆な意見につき合うほど暇な人生を送ってはいないけれども、そもそも、ぼくは彼ら/彼女らのいうポジティブ/ネガティブという言葉の意味がよく分からない。表層的な楽しさが実は人生における真の喜びに直結していることもあるし、ただ無意味な享楽に過ぎないこともある。苦しみのなかにこそ存在することへの喜びが隠されていることもあるし、救いのない苦痛のなかで死んでいくこともある。魂の次元での言葉を、肉体の次元での言葉に透かして書き込むことさえできないのであれば、そのひとはもう、少なくともぼくにとっては、哲学者ではない。

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在るということは、決して楽しいことでも、明るいことでもない。だけれども同時に、そこにある苦しみや恐怖によってこそ、ぼくらは存在していることへの真の喜びを感じることができる。ぼくはそんなふうに思っているし、そんな論文を書きたいと、常に願っている。