ただしスタバは除く

あと二週間ほどで論文を仕上げなければならないのですが、そしてもう仕上げの方向性も見えてはいるのですが、なかなか、気が重いことばかりあったりすると、この最後の仕上げというのが難しいのです。けれどもこの論文にはほんとうに力を入れているので、とにかく、すべての浮世の雑事を切り離して彼女と論文合宿をし、良いものを書きあげようと思っています。論文合宿。何とすばらしい響きでしょうか。まるで昔の文豪たちが鄙びた温泉街の宿に逗留し、文学史に残る作品を残してきたその歴史の一端に連なるかのようではありませんか。まあ実際は、髪もぼさぼさ、髭も剃らず、自室にこもってひたすらキーボードを叩き続けるだけに過ぎないのですが。とはいえ、とにかく書くことだけは好きですから、この論文合宿は楽しみなのです。ここ最近はメディアアートにも目を配っていたので、そんなことも胡散臭く交えつつ、この機会を与えてくれた仲間たちにも恥じないような原稿を書き上げようと思います。それに、やっぱり彼女にも、かっこう良い哲学者だと思われたいしね。単にいつでも頭痛でふらふらしているだけのデクノボウではない。こともない。

けれど、なかなか現世の生活も厳しく、仕事と家のことと学会のことと、あとまあ大宇宙のこととかで手いっぱいで、家に帰るとぐったりしています。研究のことだけを考えていられれば幸せなのですが、そういう人生は送れそうもありません。でも案外、そんな生活を手に入れたら、特にぼくの研究テーマの場合は、あまり面白いものは書けなくなってしまうかもしれませんね。屑みたいな、というより、もう、はっきり人間の屑が屑らしく生きているなかでこそ生まれる研究。それはそれで面白そうじゃないですか。

研究って、最近特に思うのですが、お勉強ができるだけのひとには決してできないものです。いや、これは結構難しくて、例えば建前世界でこういうことを言えば、賛同してくれるひとって、いるんですね。でもリアルにアカデミズムの世界に入ると、ただただお勉強ができる延長線上でボス争いやブランド争いをしていたりする。そういう二面性はあります。あと、恥知らずにも研究はできない。でもこれって同じことです。恥を知るということは何かというと、どこかで、圧倒的な「ほんもの」に出会ったことがあるかどうかによって決まるのだと、ぼくは思います。そうして、もしその「ほんもの」の「ほんもの性」を真に感じ取ることができるくらいの、せめて感性があれば、自分の小利口さなどが如何に塵芥のようなものであるかも分かるはずです。それは本でも良いし、映画でも良いし、絵画でも音楽でも友人でもある一瞬の光景でも神体験でも何でも良い。それを知らない研究者は、基本、信頼できません。

などと言っているとどんどん居場所がなくなっていくのですが、幸いなことに、ぼくは子供のころになりたいと思っていた天文学者にはなれなかったし、大統一理論を探究するぜと言って素粒子物理学の道に進んだりもしなかったので、基本、巨大な実験装置は必要なく、ペンと紙さえあれば、どこでだって研究はできます(ただしスタバは除く)。言い古されたことではありますが、でもまあ、哲学をやるのなら真理ではある。だけれども案外、ではほんとうにペンと紙しかない状態で研究できる奴がどれだけいるかって言ったら、実際にはそんなにいないです。文献がないとダメとか。無論、それは悪いことではなくてまっとうなことだけれど、でも、過去の哲学者の残した哲学書を研究することと、彼ら/彼女らの残してくれた哲学そのものと取り組み対話をするということとは、同じ研究であっても、まったく違いますよね。それは決して奢っているということではありません。むしろ、少なくない哲学研究者たちがしばしば見せるあの異様なプライドこそ、先人の遺してくれた哲学をただ喰い散らかしていることを恬として恥じない、驚くべき驕りでしかないとぼくは思っています。などと言っているからどんどん居場所がなくなる。

でももともと居場所なんてないのです。大学も学会も、端から居場所なんてものではない。それを勘違いしてはいけない。もしあるとすれば、ペンによって紙上に世界を描きだすように、居場所自体も自ら作りださなければならない。そんなこんなで、いま彼女と、壁がぜんぶ本棚になっているような、居心地の良い部屋を作ろうね、と計画しています。それは参考文献がどうとかいうことではなく、本が、ぼくらにとって「ほんもの」のひとつだからこそです。哲学なんてどこでだってできるけれど(ただしスタバは除く)、ぼくらが真に自分が書くべきものに立ち向かう力を借りてくることができるのは、「ほんもの」を措いて他にないのですから。