思い出

相棒に何か楽しい話を書きなよと言われたので、何か楽しいことを書いてみようと思います。

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昨晩、もう午前3時くらいだっただろうか、ふと目が覚めて手洗いに行ったとき、風呂場の摺りガラスの向こうに女性が居て、顔をべったりと窓に押しつけているのが見えた。街灯のみの薄暗いなか、しかも摺りガラス越しなのにはっきりとその相貌が分かる。だから、それがいわゆる「現実」の存在ではないのは明らかだし、現実でない以上、驚きはしない。

だけれど、よく考えてみると、これは不思議なことだ。ぼくは普段、相当にびくびくしながら過ごしている。例えば顔を洗ってタオルで顔を拭い、ふと振り返ると彼女がそこに立っていたりする。そもそも初めから彼女がそこに居るのは知っているし、物音も聴こえている。だけれど、そこに立っている彼女を見て、飛び上がるほど驚いてしまう。そういったことを、家でも会社でも大学でもやる。そうして、これはかなり、相手を不快にさせてしまうことのようだ。その度に謝る。

そこに誰かが居ると分かっているのに、実際に目にすると、わっと驚いてしまう。ところが、ぼくがしばしば目にする、日常的な意味での「現実」には存在しない何かに対しては、いくらそれが突然のものであっても、驚くことはない。あ、虫様の幻覚は別で、あれは苦手だ。最近は長い紐状の影があちこちを素早く這いずり回っていて、これはほんとうに困るし気味が悪いし心臓にも悪い。ともかく、昨晩出会ったような何かに対して、ぼくは驚くということをしない。

それは、環境とぼくとの相互作用によって生まれる何かであって、決してぼくの脳内の独白などではない。とはいえ同時にそれは、ずっと昔、ぼくらの誰もが見ていたかもしれない精霊たちとは異なり、この世界の本来的な存在でもない。それはバグのようなものだ。ぼく自身、自然のなかに居るときに見るものがあるけれど、それと、昨晩見たようなものとの間には、根本的な差異がある。端的にいえば、それは歪みだ。環境の歪みと自分のなかの歪みが同期したときに、その何かが現れる。とても不自然で、だけれども、とても現代的で人間的なもの。草木的な意味での自然さはないけれど、不自然な生を送る人間としては自然なもの。だからそれは、自動車がぼくらを脅かすのと同じ程度にしかぼくらを脅かさないし、逆に、自動車がぼくらを脅かすのと同じくらいにぼくらを脅かす。

話を戻すと、なぜそういったものを不意に見たときに、この臆病なぼくがびっくりしないのかといえば、それは、それが現れる条件として、環境の歪みと自分のなかの歪みがシンクロしなければならないからだと思う。その高まりを脳が漠然と感じ取る。同期し盛り上がった波頭が崩れ、その飛沫がこの世界というスクリーンに汚れのような跡を残す。人間はそれを予期した眼差しにより、瞬間、心に留める。そうしてすぐに薄れて消える。

と、言葉でどう表現しようが、それは構わない。これは誰もが感じていることだし、誰もが見ているものだ。言葉を変えると驚くほどありきたりなことになってしまうのかもしれないけれど。

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ここまで書いてふと、最初に相棒に言われた「楽しい話を書くように」という命令をまったく実行していないことに気づきました。でもなあ、毎日、何も変わり映えしないし。きょうも一日シュレッダーをかけていたし。明日のレジュメもまだ何も準備をしていないし。博士時代の恩師に「入籍します」とメールをしたけれど、文末に「(笑)」とかつけたからか全然お返事ないし。特に楽しいこと、ないんですよね。