あ・ぎよぎよ・ううん・う

この三日間は家から一歩も外へ出ず、平穏な気持ちで過ごしていた。街へ出るたびに生きるか死ぬかという思いをする。それはぼくの半分で、残りの半分はこれまでの人生で鍛え上げてきた常識人たるぼくだ。だからもう片割れの自分が感じる恐怖心を、馬鹿にはしないが、それなりに割り引いてつき合うことにしている。ともかく、家に籠っているあいだは、毎日風呂場を洗っては水を張り、合計10時間以上水風呂に浮いていたと思う。水の匂いは心が落ち着く。

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ところでぼくは昔犬を飼っていた。飼っていたと言えるのかどうか、ぼくが幼稚園に通っていたころに我が家に来たので、当時のぼくでは碌に散歩もできはしなかったし、彼が恐くて、カーテンに身体を包んで隠れていたのを覚えている。そうして彼は、カーテンの裾から覗いているぼくの素足をペロペロ舐めていた。

もちろん、ぼくがある程度大きくなってからは普通に散歩に連れて行った。何しろ変わった犬だったから、可笑しな記憶もたくさんある。柴犬だったので、寿命はせいぜい十数年。ぼくが大学に行き、既に落ちこぼれ始めていたころ、老衰で死んだ。

ペットロスとか、そういう安っぽい言葉は嫌いだ。偏見だけれど(そもそもぼくは偏見の塊のような人間だ)、そんな言葉を軽々しく口にするのは、「大切な何かを失った自分」に焦点を当てたいからなのではないかと思ってしまう。喪失というのは、ほんとうになくなってしまうということだ。それを表現するのは、大抵の場合、人間の手には余る。

それでもともかく、記憶はある。柔らかいとはとても言えないような彼の背中の毛皮。散歩の途中でちょっと一息入れるときなど、ごしごし擦ってやると喜んでいた。ぼくの手にはずいぶん犬臭さが移った。臭いは、もっともコントロールしにくい、記憶を甦らす契機だ。ぜんぜん無関係なような臭いを嗅いだときに、ふと、あのときの犬臭さを思いだし、それを通して、漠然としたあの十数年の記憶の総体が空から降ってくる。あの手触りと匂い。それはどこかで、父のよく着ていたコーデュロイのジャケットをぼくに思いださせる。直接的には何の類似もないのに、記憶の働きというのは奇妙なものだ。

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彼女と時折散歩をする道があり、その途中にペットショップがある。一度、ふたりでそこを覗いたことがある。ペットショップは苦手だ。子どもの時分にドリトル先生を読んだことがあるひとならば、きっとその意味が分かるだろう。ぼくは本ばかり読んでいるような子どもだったし、彼女はぼくよりもはるかに本を読んでいるから、ドリトル先生でさ、と言えば、もうそれで通じる。でもそのときは覗いてみた。そういうときってあるものだ。

芝の子犬がしっぽをぱたぱた振りながら、柵越しにぼくの手を舐める。ぼくは対人恐怖症の上に、何故かしばしば他人に憎まれる。だけれども、犬にはあまり嫌われた記憶がない。たぶん身体から犬の匂いがしているからだろう。ぼくらはしばらく彼を相手に遊び、じゃあねと挨拶をして帰った。それ以来その店に入ったことはない。ペットショップは、やはり苦手だ。

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彼女と散歩に行くときは、大抵、ちょっと離れたところにあるスーパーに寄ったりする。普段は行かないような。そこで野菜や果物を買う。そうするとぼくは大抵、食べたあとに残った種を庭に植えようよと彼女に言う。育つかどうかは分からないけれど、育ったら何か嬉しいよね。まあうまく何かが育つと本気で思っている訳ではないけれど。

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人間は言語という渦巻き機械から生み出され、その遠心力によって自然から乖離し続けてきた。その不自然さが人間の自然で、でもどこかで、そうでない生があるのではないかなと、いまだに願っている自分もいる。

ある一線を超えないような人生を送れればなあ、と思う。けれども、それが難しい。途轍もなく、難しい。