彼の抜き手はあらゆる防御をすり抜け

母校でちょっとした集いがあり、それに参加してきました。無論、普段の彼なら、そんなパーチーなんぞには近寄りもしません。だけれど、ある日、その大学の学長から電話があったのです。これまた無論、普段の彼なら、電話なぞには絶対出たりはしません。ですが、そのときはちょっと魔が差してしまったのでしょう。取り返しのつかない事故というのはそういうときに起きます。電話に出ると、何月何日にちょっと大学来られる? と学長が言います。職でもくれるのかな? くれるのかな? と思ったら(そんな訳はない)、ある集いをやるんだけれど、人数少ないし頭数合わせに来てよ、とのこと。がっかりしょんぼりしながら、それでもひさしぶりにお会いできる先生方もいらっしゃるしと気持ちを切り替え、当日はとぼとぼと大学へ行ってきました。

しかし、実際のところはとぼとぼなどあり得ません。彼はいま活動量計をつけているのですが、あとでデータを眺めると、常に小走り状態で記録されています。胡乱な目つきをした職業不詳の男性が足音も立てずに高速移動を続ける。ニンジャ! そう思いながらも大学最寄りの駅に着きます。予定より少し早い時間に着いてしまい、こういうとき、彼の臨機応変さのマイナス方向への振り切りっぷりが露呈します。駅近くのビルにある本屋や喫茶店で時間を潰すということができないのです。だって知らないところ怖いもん。知らないところとか言って、彼はその駅を最寄りとする二つの大学に通い、その合計は8年を超えています。何故8年以上も? 理由はない。警察の取り調べに彼はニヒルにそう答えます。ともかく、時間を潰すこともできず、歩いて行くことにしました。大学までは30分。ちょうど時間の調整ができるでしょう。ヒタヒタ、ヒタヒタ、ヒタタタタタッ、ニンジャ!

大学内の会場に着くころには、もう汗だくです。まずはトイレに隠れて顔を洗い手を洗い、昨晩仕事帰りに1000円カットのお店でイギリスのEU離脱と日本の参議院選挙についてなぜか延々話しかけられながら(例によって「あっあっあっ」とナイスな頷きだけを返しつつ)ざっくり切られた髪もついでに濡らして整え、それでも汗は引かず、それでも、それでもなおメロスは行かねばならぬ。何しろトイレを出たらもう会場の受付なのだから逃げようがありません。でもきみはまっぱだかじゃないか。

会場に入り、同期の知り合いは一人も居ないことを確認します。まあそんなこったろうとは思っていた。既に彼の顔には死相が浮かんでいる。だが、とにもかくにもお世話になった先生方に挨拶をしなければならぬ。ところがなぜかこの大学、先生に挨拶をすると、みな握手を求めてくるのです。欧米人なのでしょうか。しかし帰国子女たるわたくしも、握手を挨拶とすることに抵抗はありません。すっと手を出します。全速歩行してきた汗と場違いなところへ紛れ込んでいるという明白な自覚による冷や汗で、手はもうヌルッとスルッと相手の手の中に滑り込んでいきます。しかしある理由から人格者揃いの先生方は、眉一つ動かすことはありません。「クラウドリーフくん元気だった?」「送ってくれた論文読んだよ」「誰にも読んでもらえない論文があったらまた送ってよ」「誰にも読んでもらえないんでしょ」暖かい数々の言葉に、彼の冷汗の総重量は体重のおよそ2.5倍に達します。「私はクラウドリーフではありません。タイから来た留学生のスヌルット・テニギリナクシュです。日本は物価が高いですね。職をください」本音を交えつつにこやかに挨拶をします。「サヤッダラッチリッビリッ」それはマレー語です。「私は下痢をしています」違ったかもしれない。彼の頭の中には、断片的で混乱した記憶しかないのです。

それでもやはり、学生時代にお世話になった先生方にひさびさにお会いするのは、とても嬉しいことです。ぼくのような半端な人間が研究者をやっていられるのは、間違いなく、この人びとに学問云々を超えて教わったことによります。最初の大学で完全に落ちこぼれていたとき、エリート揃いの教授陣がぼくを見るときのあの目つきを、当時のぼくは決して忘れませんでした(いまとなってはどうでも良いことですし、むしろ彼ら/彼女らを哀れに思います)。そういった意味で、先生方が退官なさった後も変わらずに気迫と熱意とユーモアをもって燃えさかっているのを見るのは、それだけで十分意味のあることでした。

そのなかのおひとりに名刺をお渡ししたとき、住所も書いておくれ、と言われ、慌てて鞄からペンを取りだします。パーティーの後に彼女に会うつもりで、貰い物の海苔とお茶を持っていたのですが、それが鞄からごろりと転げ落ち、グワラングワランと転がります。ようやく取り出したペンは何故か薄く、自分で専用シートに印刷した名刺はつるつるしており、まともに文字も書けません。知り合いの同期もなく、先生方とお話をしていない間は、ひたすら手持ち無沙汰で気配を殺しています。ニンジャ! そんなこんなのすべてが、悪い意味で燃えさかる恥ずかしさとして身を苛みます。でも、どうでも良いことです。この年になっても治らない人見知りとか緊張癖とか、まあそんなことは、所詮、俯瞰してみれば人間の微笑ましいみっともなさでしかありません。

ひさびさの休日、尊敬する先生方と神の話をしたりして帰ってきました。いまぼくが関わっている学会ではそんな話はまずできないので、何だか改めて自分の研究の根源にあるものを確認できたように思います。