ストレンジ・アトラクター

あの夏からもうずっとあと、必要な資料を紀伊国屋本店で探していたとき、偶然、笹塚さんに出会った。もう二十代も後半だろうに、相変わらず奇妙な魅力を放っている彼女に、やはり相変わらずぼくは理由の分からない恐怖心を抱く。けれど隠れる間もなく彼女もすぐぼくに気づき、躊躇いもなく近づいてくる。「ひさしぶりだね、元気にしていた?」「おひさしぶりです。まあ何とか生きていますよ。笹塚さんこそお元気そうで何よりです」「また他人行儀なんだから。ぜんぜん変わってないね」そう言って笑うと、せっかくだからどこかでお茶でもしようよ、時間があればさ、時間はあるでしょ、と無理やりぼくを引っぱっていく。その強引さに昔を思い出し、思わず苦笑しながら彼女に連れて行かれる。

世界堂の上にある喫茶店に落ち着き、しばらく互いの近況を話したりする。笹塚さんもぼくと同様、時間に縛られるような生活を送ってはいなかった。だってそう願ってもさ、時間の方が相手をしてくれないんだよね、と、彼女は屈託なく笑う。

しばらく他愛のない話をしてから、やがてそろそろ帰ろうかというとき、不意に彼女が身を乗りだし、避ける間もなく顔を近づけてくる。あの時も感じた、幻想としての彼女の匂いに、思わず身をこわばらせる。「きみってさ、結構、私と似ているんじゃないかなって思っていたんだよね。あのとき一緒にバイトしていた連中はみんなどこか似ていたし、いまはどんどんそういう奴らが増えているけど、でもやっぱり、いまでもきみがいちばん近いと思うんだ。だからさっきも書店ですぐきみに気づいたんだよ」それを聞いてぼくは、ああそうか、そうだったのかと、衝撃もなく納得している。

外に出ればもう夜だが、昼の熱気はいまだに街に篭っている。携帯の番号を交換するとか、何か私たちの柄じゃないよね、という笹塚さんに、会う奴にはどうせまたどこかで会いますよ、と答える。それは彼女に通じたらしく、そうだね、と懐かしげに微笑む。新宿駅へと向かう彼女を見送り、ガードレールに凭れかかってほっと息をつく。彼女に感じていた匂い、目の前を行き交う人びとの匂い、少しずつ世界に拡がっていく匂い、ぼく自身の匂い。ずっと知ってはいたけれど、ようやく分かった。だけれども、それがぼくらの生き方なら、ぼくらはそうして生きていくしかない。道路に開けられた通気口から、地下鉄の空虚な振動が伝わってくる。

あの時走り出したぼくの熱量はまだ残っているだろうか。身を起こすとぼくは、脚に力を込めてみる。怪訝な視線を向ける人びとのなかで軽く前傾姿勢を取り、ビームのように走りだす。

大学二年の夏休みに入ると同時に、ぼくは青山の怪しげな会社でアルバイトを始めた。夏の間だけ借りたという古いマンションの一室がぼくらの職場で、監督役の若い社員が一人居る他は、大学生やら、当時現れ始めていたフリーターやらが十人ほど集まっていた。そのマンションはコンクリートと植物が罅割れを戦場として拮抗し、あと二年もすれば取り壊されるのだと、どこか崩れた雰囲気の社員が言っていた。そいつの趣味なのか、朝から夕方までラジカセでビートルズが流れていることを除けば、胡乱な連中ばかりのなかで、案外ぼくはうまく溶け込んでいたと思う。働き始めて三日目にはビートルズにうんざりし、ぼくらはその社員をイマジンと呼ぶことにした。ぼくらに肉体労働を押しつけ、自分だけは暇そうにしている彼に対するあてつけもあった。

昼休みになれば殺風景な休憩室でコンビニ弁当を食べつつ、他の連中の無駄話に耳を傾ける。たぶん二十半ばくらいだったのだろうが、バイトのなかでも年配の山岸という男がいた。いつも黒尽くめの服に身を包み、世界に対する怯えを虚勢で隠せていると思い込んでいるような下らない奴だったが、下らなさで言えばもちろんぼく自身を含めた誰もが同じだった。山岸はヘビースモーカーで、中途半端に吸い終えた煙草の吸殻を、揉み消しもせずに灰皿代わりの飲み終えた缶コーヒーに突っ込むのが癖らしかった。ある日の昼休み、何を勘違いしたのか、奴はぼくが飲みかけていた缶コーヒーに吸殻を放り込む。「わりいわりい間違えちまったよ」と悪びれもせずいう山岸に、気にしないでいいですよどうせほとんど飲んでましたしと答え、翌日の昼休み山岸が席を外した隙に、やつの空き缶に、切り取っておいたぼくの髪の毛の束を放り込んでから弁当を買いに出かけた。近くの公園で弁当を食べ、昼休みが終わる直前に休憩室に戻ると、山岸に「まじ臭せえよ何してんだよおめえは」と言われ、頭を叩かれる。結構、ぼくらは楽しくやっていた。

六時になればバイトはお終いだ。やる気なくにやけたイマジンに追いやられ、ぼくらは朽ちたコンクリートの匂いを嗅ぎつつ階段を下りマンションを出る。夏の日差しに通りはまだ明るい。少し歩けば青山通りで、青学の正門から流れてくる華やかな学生たちを憎悪しつつ通り過ぎ、渋谷駅に着く前に宮益坂上の中古レコード店を覗くのがいつものルートだ。ポップがべたべた貼られた窓ガラスの片隅にはいつでもバイト募集中の張り紙があるが、ラジオで流れる流行曲を聴く程度にしか音楽に興味のないぼくには関係のない話だ。それでも客の少ないその店は、時間を潰すにはちょうど良く、聞いたこともない外国のミュージシャンのアルバムのジャケットを眺めているだけでも楽しめた。そういえばある日そこでイマジンに遭遇したことがあった。咄嗟に少し離れたところに隠れ観察していると、案の定彼はビートルズが置かれた棚まで真直ぐ進むと、その前でしばらくじっと思案していた。結局、何も買わなかった。

時折ぼくは、バイトのあとに渋谷駅とは逆方向に向かい、青山墓地をうろつくことがあった。このバイトを始めるまで青山墓地など聞いたこともなかったが、ある昼休みに何の目的もなく散歩をしていて、ふいに自分が広大な墓地に紛れ込んでいるのに気づいた。通りから離れた奥まで入ってしまえば、都心の昼時とは思えないほど人気がなくなる。一等地であろうに意外なほど荒れ果てた区画もある。何故かそんなところに居ると、心が安らぐのを感じた。

大学へも行かず、かといって金もないままにアパートで寝転がる。不意に電話が鳴るが、どうせ大学の教務か母親のどちらかでしかないし、そうであれば出るつもりもない。自動で留守電に切り替わり、予想通り母の声が聴こえてきて、盆には実家に帰ってこいと言っている。通話が終わると即座にその録音を消す。

赤字路線の電車の終点からさらにバスで四十分程山道を揺られると、ようやくぼくの生まれ育った村に着く。そんな辺鄙な場所にも拘わらず、意外にしぶとく過疎には縁がない。さすがに大学に行くには都会に出るしかないが、だいたいの連中がまた村に戻っていく。ぼくには信じられないが、まあ、それはそれでそいつの人生だ。帰ってこいと母は言っていたが、それはぼくが出来損ないだからであって、そもそも村の連中は、言われるまでもなく、どこに居ようが盆には村に帰ってくる。何故なら、盆にはぼくらがするべき祀りがあるからだ。

奇妙な目で見られる趣味がある訳でもなし、あまり人に話したことはないけれど、あの村には他では見られない独特の墓地がある。墓地というか、墳墓というか、とにかくそんなものだ。裏山の中腹にせいぜい一反ほどの空き地があり、そこに石で組まれた小さな塔がある。それが村でただ一つの墓だ。塔は中空になっていて、内側は井戸のように深く掘り下げられている。壁沿いには大人がどうにかすれ違えるほどの螺旋階段が刻まれているが、万一落ちれば命はない。実際、何十年か前には祀りの間に死者が出たらしい。それをむしろ目出度いことででもあるかのように村の老人たちは語っていた。気が狂っているとしか思えないが、諏訪の御柱祭だって死人が出るのだ。案外どこでも、それが普通であるのなら普通なのかもしれない。

バイト先のマンションの階段を上っていると、途中に一葉の写真が落ちている。安っぽいポラロイド写真だ。いかにも適当なフラッシュに照らされたその光景が安っぽさに拍車をかけている。既に出社しビートルズをかけながら雑誌を読んでいるイマジンに挨拶をし、始業までの間、控室で缶コーヒーを飲む。やがて笹塚さんが入ってきた。今回のバイトのなかでは唯一の女性で、年齢はたぶん二十歳を少し超えたくらいだろう。年に似合わない妙な色気があり男連中からは人気があったが、ぼくはどうしてだか彼女のことが少し恐ろしく、理由も分からないままに敬遠していた。彼女は荷物をロッカーに入れるとぼくの方にやってくる。「ねえねえ、階段に落ちてた写真、見た?」悪戯っぽい笑みを浮かべて訊いてくるので、「ああ、あの男女がセックスしているやつですよね」と答える。笹塚さんは「無表情でそんなこと言わないでよ」と一頻り笑い転げてから、声を潜めて、「あれさあ、四階の空き部屋にある写真だと思う。凄い変な部屋なんだよ。始まるまでまだ時間あるから見に行こうよ」と言い、興味がないというぼくを強引に引っ張っていく。

ぼくらが働いているのは二階で、三階にはまだちらほら住人がいる。時折コンビニの袋を下げた外国人を見かけるし、奥には医院まである。黄ばんだカーテンがいつも引いてあり、いまでも開院しているのかどうかは分からない。一度だけカーテンの隙間から覗いたことがあるけれど、白衣を着た老人が東欧のコマ撮りアニメに出てくる人形のような動きで、黄ばんだ光のなかを歩いていた。それが四階になると、もう完全に廃墟だ。以前山岸とふたりで行ったのだが、開きっ放しの扉の向こうに明らかに不法に住み着いている誰かの雰囲気があったり、床に得体のしれない液体がぶちまけてあったりして、ぼくらは早々に引き揚げたのだ。けれど笹塚さんは度胸があるのかどこかおかしいのか、平気な顔で空き部屋の一つに土足のまま入っていく。当然電気は通っていないが、塵の散らばった部屋には朝日が差し込んでいる。「ちょっと、大丈夫なんですか」「平気平気。日中は誰も居ないっぽいし」と答え「ここ、見てごらんよ」と開いたガラス戸の向こうのユニットバスを指す。見るまでは解放されそうもなく、仕方なく風呂場に足を踏み入れ覗き込んでみる。黒ずんで汚れた風呂桶の底には、階段にあったのと同じような写真が何百葉となくばら撒かれ積もっていた。その数自体がすでに狂気だ。そして見える限りそのすべてに、この部屋だろうか、ベッドの上で濡れて交合する男女の姿が、形を変え幾度も映しだされている。周囲は薄暗く、計算もなく焚かれたフラッシュに肌が蒼白く浮かんでいる。深海で見る悪夢のような情景。いつの間にか隣に来ていた笹塚さんが、狭いバスルームでぼくに身体を寄せつつ囁く。「ね、きっとこの写真を誰かが持ちだしたんだよ。それとももしかしたら、誰かが定期的に写真を補充しに来ていて、あれは途中で落としちゃった一枚なのかもしれないね」確かに彼女の言うとおり、底にある写真は酷く汚れ、上にあるものほど新しく見える。だが写っているのは恐らくいつも同じベッド、いつも同じ二人だ。「ね、凄く変でしょ」笑顔で呟く彼女の身体に、ふとぼくは死臭を感じる。ぼくの知らないぼくが嗅ぎなれている匂い。薄暗い風呂桶の底の薄暗い写真のなかへ、ぼくは墜ちていく気がする。

東京の大学に入るまで、ぼくはあの村で過ごした。数えで十四歳を過ぎると祀りに参加できるようになるのだが、それが子どもながらに誇らしかったのを憶えている。けれど祀りといっても、実際のそれはむしろ土木工事に近い。塔の下に伸びる深い竪穴の壁面には、螺旋階段沿いに無数の窪みが掘られており、その一つ一つに死者の遺骨を納めた壺が置かれている。どれが誰の壺だったのかは時が経つにつれ忘れられていくが、墓そのものが一つしかないのだから、そんなことを気にする者はいなかった。一年が巡る間に誰かしらは死者の群れに加わる。窪みはいつでも壺と同じ数しか作られないから、祀りになるとぼくらは穴の底まで降りて行き、さらに深く掘り下げ、螺旋階段を刻み、新たな死者の分だけ壁に窪みを穿つ。

遙か昔から引き継がれているという祀りの手順は単純なものだ。十四歳以上の村人が宮司を先頭に一列となり塔に入る。塔のなかでは決して声を出してはいけない。まずは螺旋階段を下りながら、先頭の宮司が一定間隔で壁に灯燭をともしていく。太く長い蝋燭が一つともされるたびに、後ろの者から前の者にまた一つ、蝋燭が手わたされていく。そうして穴底に辿りつくと小さな麻袋を満たすくらいに土を掘り起こし、それを背負って階段を上っていく。下りは壁に沿い、しかも底は完全な暗闇なので恐ろしさもさほど感じないが、帰りは細い螺旋階段の端を上り、底も薄暗く見えているので、酷く恐ろしい。

必要なだけ穴を深くし、死者の数だけ窪みを掘ると、次には骨壺を移していく。ぼくらは再び一列に並び、一人が一つずつ、新しい死者の数だけ壺を穴の底に向かってずらしていく。当然、いま生きている人びとよりも死者の方が多いから、すべての壺を移動し終えるまで、ぼくらは何度でも地上に戻り、また地下へ降りることを繰り返す。

だから、最も古い骨壺が、いつでも穴のいちばん底にあり、最も新しい死者の壺が、いちばん地上に近いところにあることになる。最初の死者の壺には宮司しか触ることが許されず、老人たちはそのなかの死者のことをでぇじばぁ様と呼び、殊に敬意を払っているようだった。

バイトの仕事内容は相変わらず意味不明なものだった。どこからかトラックで定期的に運ばれてくる大量の段ボールに、建物の図面のようなものが詰め込まれている。そこに書かれた記号を見ながら機械的に分類し、ファイルに綴じ、再び別の新しい段ボールに詰める。それをトラックがまた持ち去っていく。とは言え、あからさまな違法行為でない限り、給料さえ支払われるのなら、ぼくにはどうでも良いことだった。相変わらずにやけたイマジンは朝からビートルズを流し、笹塚さんはコケティッシュな笑顔を振りまき、山岸は煙草を中途半端に吸っていた。ぼくは青山墓地を歩き回ることが多くなっていた。夏はいよいよ暑く、蝉の鳴き声も断末魔の叫びでしかない。ある日の昼休み、普段とは違う小道を進んでいくと、小さな墓石が草叢に倒されている。ありふれた御影石の墓石に某家代々の墓とありふれた苗字が刻まれている。それほど古いものではなさそうだった。見る限り周りに墓石のない墓はなかったから、どうしてこんなところに打ち捨てられているのかは分からないが、不思議と陰惨な感じもなく、むしろ照りつける日差しの下、強烈な生命力さえ感じさせていた。磨き抜かれ透明にさえ見えるその石は内部で光を束ね、籠められている魂を強力なビームとして空に放つ。そんな空想をしてみる。

仕事が終わり、中古レコード店で時間を潰し、渋谷から東横線に乗って家に帰る。留守電のランプが点滅している。再生すると、教務からの呼び出しと盆には帰ってこいという母からの伝言だけが残されている。そのどちらも消去し、TVをつける。深海の生き物が映しだされ、その風変わりな姿をしばらくぼんやり眺めている。

祀りに参加して三回目の盆、十五歳のとき、ぼくは墜ちた。前日から少し熱があるのに気づいてはいた。祀りに参加するのは強制ではないから、理由があれば参加しなくとも責められることはない。けれど当時のぼくは大人になるということへ憧れ、日常では感じることのできないその責務を果たすことを、何より大事に思っていた。そして無理をして土を詰め込んだ袋を背負い螺旋階段を上っているとき、一瞬、重力を失い、気がつけば物凄い勢いで土壁が迫り上がっていく。いや、ぼくが墜ちているのだ。けれどぼくが恐怖したのは墜ちていることではなく、墜ちていくぼくを見つめる人びとの、無表情な、けれどどこか狂おしいまでの官能に満ちた目つきだった。

結局、どうしてだかぼくは掠り傷一つ負うことはなかった。地面に叩きつけられた瞬間の記憶がなかったぼくは、幾度かそのときのことを訊こうとしたが、大人たちは何も答えてはくれなかった。それから三年間、どこかずれた気持ちを抱えたまま過ごし、大学合格と同時に村を出た。ぼくがあのとき死ななかったのは、決して奇跡などではない。あの村の連中も、そしてぼく自身も、きっとどこかでそれに気づいている。

いよいよ盆も近づいてきたある日、ぼくらが働いていると、隣の部屋からイマジンが怒鳴る声が聞こえてきた。「そんなにやる気がねえんなら辞めちまえよ、こっちは人手は足りてんだよ!」どうやら、遅刻が増えていた山岸に、ついにイマジンが切れたようだった。だが、山岸も負けてはいない。「朝から晩までビートルズ聴かされる身にもなってみろよ! イマジンしろよ!」と怒鳴り返している。イマジンしろよ、のところでぼくらはみな思わず笑ってしまう。好きな音楽を貶されたら余計に激怒するんじゃないかと思ったが、イマジンはなぜか急に冷静な口調に戻ると、「じゃあきみきょうで馘首ね。きょうまでの賃金は払うから。ご苦労さまでした」という。何故か山岸も丁寧に「あ、どうもお世話になりました」などと言っている。しばらくして作業場に顔を出すと、山岸はぼくらにニヤッと笑いかけ、「じゃ、そういうことだから。会う奴にはどうせまたどこかで会うだろ」とだけ言うと、控室に置きっ放しだった荷物を取りまとめ、さっさと出て行ってしまう。その身軽さを少しだけ羨ましく感じる。

仕事を終え、ひさしぶりにまっすぐ渋谷駅を目指す。楽しげに囀りながら正門から溢れてくる学生たちに呪詛の言葉をひっそりと投げ当てつつ、そういえば俺もまだ学生なんだよな、と思う。何となくレコード屋を覗く気分でもなく、宮益坂上の交叉点を通り過ぎようとすると、通りに面したビルの段差に腰を下ろし、例によって空き缶を灰皿代わりに煙草を吸っている山岸が居た。よお、と手を挙げる彼に近づき、何をしているのかを問う。「いやお前を待ってたんだよ。あのマンションの前で待ってると他の連中に会っちまうし、それも何だか恥ずかしいしさ」そう言うと、ほら、とぼくに缶コーヒーを放り投げてきた。咄嗟に掴み、その冷たさから、彼の意外な繊細さに気づく。「何ですかこれ」「前にさ、お前の飲みかけのコーヒーに間違えて吸殻入れちまっただろ、その弁償だよ」と言う。律儀な男だ。彼の隣に腰を下ろし、缶の口を開けながら訊ねる。「それで山岸さん、バイト辞めてどうするんですか?」山岸は笑って、「実はもう次のバイト決まっているんだよね。知ってるかどうか知らねえけど、そこの角にある中古レコードの店。俺音楽好きだし、ある程度だったら自分の好きな曲流してもいいって言うしさ」そうなんですか、と相槌を打ち、缶コーヒーを啜る。「そうだ、コーヒーのお礼に一つ良いことを教えましょう」「何だよ」「あのレコード店、時折イマジンが来ているみたいですよ」「マジで?」「マジです」うんざりした表情を浮かべた山岸だったが、やがてそれを苦笑に変える。「ま、イマジンが来たらビートルズでもかけてやるさ」そうしてしばらく無駄話をしてから、ぼくらは別れた。

夜、電話が鳴る。留守電の向こうで、母が盆には帰ってこいと、留守応答の合成音声よりも無感情に喋っている。よくよく聴いてみれば、そこには戻るはずのない誰かに呼びかける者の諦念が込められている。あの村でともに育った誰もが、育ててくれた誰もが、ぼくにとっては既に死者だった。死者による死者のための祀り。そして彼らからすれば、ぼくこそが死者だった。母の声は死人の呟きに聴こえる。けれども、母はきっと、死んだ息子に届かない声で語りかけているのだろう。ふと、無表情にレンズを見つめる、何万年も姿を変えないで生きてきた深海魚を想いうかべる。宮司に運ばれる壺のなかのでぇじばぁ様が、ぴちゃぴちゃ、ぼくには分からない言葉で何かを喋り続けている。そうして途切れることのない軌跡を残しつつ、どこまでも深く降りていく。

別れを告げたあと、少し歩きかけてから山岸が振り返り、やけに透る声でぼくに言った。何だかさ、こんな街でこんな生活をしていると、どこまでもどこまでも続けられるんじゃないかって気がしてこねえか? 俺たちは不老不死なんだ。実際、俺はもう始まりがいつだったかなんて憶えちゃいないし、いつ終わるかも想像できない。問いかけるような彼の眼差しに、少し考えてからぼくは答える。どうでしょうね、いややっぱりぼくらは、きちんと年取って、きちんと死ねると思いますよ。そう願いましょうよ。でもって最後は空に向かってビームみたいに魂を打ちだすんです。こう、ばばっとね! そうして、踊るようにステップを踏み、大げさに手を拡げてみせる。山岸は呆れたような顔をするが、やがてにやりと笑い、そうか、ビームみたいにばばっとか、と言うと、もう振り返ることもなく再び歩きだす。

会う奴にはどうせまたどこかで会う。しばらく自分の影を相手に残りのステップを踏んでから、ぼくはビームのように走りだす。

a dreamer

彼女は、毎晩悪夢を見る。どうしてだかは分からない。もちろん、きみたちの収入が互いに不安定であったり、研究が進んでいなかったりと、不安になる要因は幾つもあった。けれど、それにしても彼女は悪夢を見過ぎていた。きみたちはいつも、手をつないで眠った。とはいえ、眠るのは彼女だけで、極端に眠りが浅く短いきみは、彼女の手の温かさを感じながら、何をともなくいつまでも待ち続けていた。時折、彼女の呼吸が乱れると、きみは彼女の手を握る力を少しだけ強める。大丈夫だよ、ぼくはここにいるよ。そうすると、彼女の寝息は再び穏やかになる。そうやって、彼女を悪夢から守るために寝ずの番をするのが、きみは好きだった。彼女を守れているという実感を得られる、それは数少ない時間だったからだ。

それでも、すべての悪夢から彼女を守れるわけではなかった。ほんのわずかな隙をついて、悪夢は彼女を襲う。それはきっと、彼女の才能なのだ。そうである以上、それは本人にはどうしようもなく、逃れようもない。才能というのは、大抵の場合はその持ち主を不幸にする。徹底して凡庸な人生を送ってきたきみは、そう思う。夜が明け、彼女が目を覚ます。彼女は疲れ切った顔に、それでも柔らかい笑みを浮かべ、ありがとう、ときみに言う。そっと、つないだ手に力を込める。その手を握りかえす。コーヒーを淹れるよ。そう言って、きみはベッドを離れる。

風の音が、きみは恐ろしかった。どうして、と問われれば答えに窮するのだが、とにかく、それはきみにとって耐えがたい恐怖だった。夜中、真暗な大気を風が震わせ、どうどうどうどう、空全体が振動する。毛布にくるまったきみは、ベッドの外に拡がる虚空に耳を澄ませ、身を震わせる。きみは気が狂いそうになり、彼女の身体を抱き寄せる。強く抱きしめた彼女の温かさと柔らかさを感じている間だけは、その恐怖に耐えることができる。彼女は目を覚まさず、それでも無意識に、きみの頭を胸に抱いてくれる。

彼女の悪夢は、大抵は分かりやすい、グロテスクでおどろおどろしいものだった。あるいは単純に誰か大切なひとが死ぬような夢もあったし、自分が追われたり、傷つけられたり、殺されたりする夢もあった。けれどもいちばん彼女を恐れさせたのは、傍からすればそのどこが悪夢なのか、よく分からないものだった。たとえば眩しいばかりの月明かりの下、古びたアパートの中庭で延々ジャグリングをしている男の夢、そしてたとえば、海岸に、赤や黄色といった原色に染まった、幾人かの人間の遺体が打ち上げられる夢。話を聴くだけであれば、そのどこがそれほどまでに彼女を脅かすのか、理解するのは難しい。けれどもそういった夢を見ると、彼女は飛び起き、数秒の失見当のあと、必死にきみにしがみついてきた。その凄まじく早く打ち続ける鼓動を感じながら、きみは彼女の髪を撫で続けた。

ほとんど眠らず、眠ったとしても一切夢を見ないきみは、夜の底に鳴り響く地鳴りのような風の音に怯え、彼女の手を握る。悪夢に嵌りこんだ彼女は、夢のなかに差しのべられたきみの手を必死に握り、きみのいる世界へ戻ろうとする。きみたちは、互いに助けあっていた。根本的な救いにはならなかったとしても、確かにきみたちは、互いを必要としていた。

きみは夢を見ない。自分を凡庸だと思っているきみは、だけれども、決して凡庸などではなかった。いっさい夢を見ない人間など、果たして本当に存在するのだろうか。――だから、もしかすると……。彼女の寝顔を眺めながら、きみはふと思う。――きみこそが、ぼくの夢なのかもしれない。あるいはぼくがきみの夢なのか。朝になれば消えてしまう迷妄に過ぎないのは分かっている。それでも、きみは不安になり、彼女をそっと抱きしめる。彼女は眠ったまま軽く身じろぎ、きみに身体を添わせる。

夜に、目が覚める。きみたちを脅かすものに、きみはじっと眼を凝らし、見張り続ける。

Hello world

新しく配属されてきた新人たちに名刺交換の仕方を教えながら、何だか無駄だよなという気持ちをきみは抑えることができない。こんなもの、マニュアル本でも一冊読めば十分なのではないだろうか。もっとも、きみはそんな本があるのかどうか知りはしないし、興味もない。それでも、表面的には優しい先輩のふりをして、受け取った名刺の置き方なんかを指導している。まっとうな社会人などというものからかけ離れた自分が新人研修を担当していることの莫迦莫迦しさに思わず失笑しかけ、怪訝そうな顔をする新人に、いやいや何でもないよと誤魔化す。
きみが好きなのはプログラミング研修だ。これなら、きみにも違和感なく教えられる。何しろプログラミングこそはきみの天職だった。もっとも、会社員としての常識を教えるときに比べ、きみのプログラミング研修は上司たちからは評判が悪かった。もちろん基礎はきちんと教えたけれど、きみがいちばん時間をかけるのが、会社の求めているようなスキルではなかったからだろう。例えばいちばん初め、お約束としてHello worldを教えるときでも、きみはすぐに脱線してしまう。――Hello worldって言うけどさ、このworldって何のことだろうね。誰がどの世界に向かって言っているのかなとかって考えてみると面白くないかな。無論、プログラミングなどほとんど初めてという新人たちの大半は、きみが何をいっているのか分からずに困惑するばかりだ。――たとえば初めてプログラムを作るきみたちが、コンピュータのなかの世界に向かってこんにちはって言っているのかもしれない。逆にきみたちが生みだしたプログラムが、コンソールを通してこの世界に、あるいは自分を生みだしたきみたちにこんにちはって言っているのかもしれない。あるいはそもそも……。きみはどこか夢見るように話し続ける。それでも、上司たちの受けはともかくとして、きみのそんな研修は新人たちには案外人気があった。きみが働いている小さなソフトウェアハウスに入社するのは、プログラミング経験のまったくない文系出身者が多かった。そんな彼らにとってきみの研修は、ほどよく適当にコンピュータに対する身構えをとりのぞくのかもしれなかった。

高校のころのきみは、大学に進んだら天文学をやろうと思っていた。けれども受験したほぼすべての大学を落ち、唯一受かった大学へ否応もなく進学したとき、コンピュータに触れたことさえなかったきみは、なぜか情報科学専攻を選択していた。生物や物理や化学は実験系が必修で、集団作業が苦手なきみにはとても無理だと気づいたからかもしれない。そして数学はといえば、きみには明らかにその方面の才能がなかった。
けれども自分でも驚いたことに、きみはそこで意外な才能を発揮した。プログラミング実習で、コンソール上にオセロのマス目を書くという課題が与えられたとき、それは本当にただそれだけのシンプルなものだったのだが、きみは三日ほど徹夜をして簡単なゲームを作り上げた。それはきみが生まれて初めて寝食を忘れて打ち込んだ経験だった。もっとも、ゲームとしてのできはそれなりだったが、試しにクラスメートに遊んでもらうと、数回に一回は勝てる程度には賢いものだった。きみはその課題で”e”、すなわちexcellentを取った。教授がそのeの上に手書きで赤く書いた”++”の記号が、きみにはとても嬉しかった。
もともと対人恐怖症気味だったきみは、きっとその大学の雰囲気に馴染めなかったのだろう。徐々に人の輪から外れるようになり、大学へ行っても芝生の上で寝転がり、猫を撫でながら空を眺めているか、コンピュータルームで課題に必要以上の質で応えようとしているかのどちらかになっていた。それでも、初めのころに無理やり誘われて入った部で知り合った女の子とつき合うようになり、彼女といるときだけはきみもプログラムのことなど忘れ、街に出てぎこちなくデートの真似事などをした。それはそれで、幸せな青春時代だったかもしれない。

いまになって、きみはそんな風に思う。そんな風に思うのは、けれども、きみが十分に年を取り、あの当時からそれだけ遠ざかったからだ。きみが与えた課題を真面目にこなしている新人たちを眺めながら、きみはそんなことを思う。――できました、と一人の子が声を上げ、きみはモニタ上の短いソースコードを背後から覗き込む。――良い出来だね。でも一箇所明らかなバグがあるよ。えーっ、と心底残念そうに溜息をつくその子に、ふと昔の彼女の面影を見いだし、きみはその記憶にそっと微笑む。きみの彼女もプログラムが苦手だった。一度だけ、彼女が単位を埋めるために嫌々プログラミング実習を受講したとき、課題を手伝うきみは、彼女としばしば喧嘩をした。きみには当たり前のことが、彼女にはそうではなかった。彼女には当然のことが、きみには理解できなかった。それでも、どうにか課題を片づけてしまえば、きみたちはいつも通り仲の良い二人に戻った。
いま、きみが一生懸命にプログラミングをしている若手を見て感じるのは、葉の上にいる天道虫を眺めるときと同じ程度の微笑ましさでしかない。きみは自分がひととして何かを失ってしまっていることに気づいていた。それでも、きみなりの形で、若手がこの世界で潰されないように、それなりにしたたかに生き延びていく手助けをできればと、それは心から願っていた。

新人研修の担当は、たいてい、古株の社員には嫌がられる。新人の面倒を見つつも自分の作業が減るわけではないから、要は負担が倍に増えてしまう。新人たちを定時で帰し、きみは自分の仕事に手をつける。終わるころには終電近くになっているが、誰かが家で待っているわけでもない。セキュリティをセットしてオフィスを出てからアパートの部屋の扉を開けるまで、きみにはほとんど記憶が残っていないが、それはいつものことだ。家具もほとんどなく、清潔だけれどもどこかかび臭い部屋に入り、きみはパソコンの電源を入れる。部屋の電気をつけるよりも先に、きみはそうする。暗い部屋が蒼白く照らされる。

夜中にふと目が醒め、枕元のノートを開く。デスクトップの片隅に置かれたkadai1.exeという、どうしようもない名前をつけられたファイルをダブルクリックする。dos窓が開き、きみが昔作った――実際にはコンパイルし直したものだが――プログラムが動きだす。単純なインターフェイス、単純なアルゴリズム。目を瞑っていてもきみが負けることはない。頭の片隅で、まだきみたちが本当に若かったころ、そのゲームに負けて悔しがる彼女の声が響く。――だいたい、あのHello worldっていうのもふざけているわよね、と彼女は八つ当たりのように言う。きみは苦笑いをするしかない。――でもHello worldって、何だか気の重い言葉だなあ。不意に、彼女の声が暗く落ち込む。――どうしてさ。コンニチハセカイなんて、ちょっと可愛いじゃないか。彼女は首を振る。――私たち、このままいけばあと二年後には卒業して社会に出るじゃない。でも何だか実感がわかないし、自信もないのよね。きみにもそれは痛いほどよく分かったけれども、でも、答えは分からなかった。だからきみは軽薄な笑いで覆い隠すしかなかった。――実感がわかないっていうのはぼくもそうだよ。何しろ進級さえ危ういんだからね……。彼女はやれやれというように笑い、きみの肩を軽く叩く。――きみはもっとしっかりしゃなくちゃ、だよ。まったくもう。そうして、――コンニチハセカイ、って、確かにちょっと可愛いわね……、と呟いた。きみたちは二人で笑いあった。

――きょうはね、一日かけて良いから、きみたちがいま持っている知識で、何か簡単なゲームを作ってみよう。課題はそれだけ。条件も何もなし。ぼくからはこれ以上の指示はしないから、質問があったらいつでも訊きにくるように。ある朝、新人たちにきみはそんなことを言う。こういう自由な課題というのがなかなか厳しいものだということは分かっているから、とにかく楽しく作ればいいんだよ、とアドバイスをしておく。自分の仕事を片づけながら、新人たちの質問に答える。夕方、新人の一人がきみの席に来る。――先輩、課題ができました。――早かったね、ときみは言い、その子の席へ行く。たった6×6マスのオセロゲームが、モニタ上で入力を待っている。――遊んでみてください、という彼女の言葉に頷き、きみはマウスをクリックする。単純ではあるけれど、きちんと動作するだけでも大したものだ。――良いできじゃない。きみは本心からそう褒める。――まだまだ。クリアしてください。きみは言われるがままにあと数回クリックを繰り返す。シンプルなアルゴリズムに負けるはずもなく、ゲームは圧倒的に白のきみの勝利となる。するとチープなファンファーレとともに、マス目が反転して”Hello world”という文字が点滅した。あまりの下らなさにきみは思わず声を出して笑ってしまう。――Hello world、だね。きみがまだ笑いを残しながらそう言う。彼女も恥ずかしそうに、――Hello world、ですね、と答える。

ステップ

方向音痴なきみは、それでも道に迷ったことがない。いや、本当は迷っているのだろうが、ひたすら力任せに歩き続けるきみは、自分が迷っているなどとは考えもしない。だからきみは、自分が方向音痴であることにも気づかず、いつか行き倒れるまで、どこまでもうろうろと歩き続けている。

しばらく体調を崩していたけれど、ようやく起き上れるようになる。少し古くなった牛乳で薬を飲み、食料を求めて五日ぶりに外へ出る。食糧といっても、たいしたものを買うわけではない。カロリーメイトのフルーツ味を冷やしたものがきみは好きだ。あとは牛乳さえあれば困ることはない。もともと食べることに関心のある性格でもなかったが、それでも、時折冷やし忘れたカロリーメイトを食べ、その不味さに顔を思わずしかめるとき、きみはふと微笑んでいる。それは、いまだに食べることに一片の喜びを見出そうとしている自分に対して、他人事じみたほほえましさを感じるからかもしれない。

駅前のドラッグストアでカロリーメイトと薬を買い、それだけで病み上がりのきみは疲れてしまう。あとはコンビニで牛乳を買うだけだが、しばらく駅前のベンチで身体を休めることにする。ひさびさに浴びる日差しに、きみは目を眇める。昨晩の雨にまだ濡れているアスファルトから湿った空気が立ち昇る。こんな街中でも、空気には少しずつ夏の匂いが満ちてきている。雑踏。無数に行きかうひとつひとつの人生。普段は苦手なその光景が、薬でぼんやりしているいまのきみには、どこか懐かしく、温かいものとして感じられる。ふと、ずっと未来の自分を想像する。駅のコンコースのベンチに座り、自分とは無関係な世界を眺めているきみをきみはつかのま眺めている。

三人の若者が広場で演奏をしている。ロックだかポップスだかも分からない中途半端な音楽。反抗しているのか甘えているのか、愛しているのか憎んでいるのかも分からない中途半端な歌詞。それでもそこには熱気があった。いつものきみなら唾棄していたかもしれないが、いまはその中途半端ささえ、苦笑とともに愛おしさを感じる。いろいろなものごとから切り離されていけばいくほど、きみは寛容になっていった。それは誰にとっても無意味な寛容さだったけれども。

どうしようもなく素人じみたバンドだったが、それでも無論、きみよりよほど腕は良い。きみも少しは楽器を弾けたが、しかし音感もリズム感も致命的に欠けていた。きみは脈絡もなく大学時代のことを思いだす。きみが通っていた大学では体育の講義が必修だった。体力だけは人並み以上にあったけれど、それ以外のあらゆる才能に見放されていたきみにとって、体育など苦痛以外の何ものでもなかった。それでも、苦手なものは克服すべきだと妙に頑なに信じていたきみは、社交ダンスを選択した。その大学には、そんな変わった選択肢もあったのだ。

――だからさ、そうじゃなくて、もっとこういう感じでステップを踏むんだよ。ペアを組んでいる女の子に、きみはまた同じことを言われる。――いや、頭では分かっているんだけどさ……。やれやれ、という顔をする彼女に、きみは申し訳なさそうに頭をかいて謝る。社交ダンスを受講してすぐ、きみはダンスが苦手なだけではなく、女性に触れることすら苦手だったことを思い出していた。けれども幸い人形劇のサークルが一緒だった子も受講しており、多少なりとも慣れているその子に、きみはダンスのペアをお願いしていた。彼女にはこういったことが向いているのか、講師のお手本を見ただけですぐに踊れるようになってしまう。一方のきみは、いつまで経っても基本的なステップを踏むことさえできなかった。ため息をついて彼女がいう。――頭で覚えようとしちゃだめだよ。身体が自然に動くようにやってごらん。きみもため息をつきかえす。――そりゃさ、きみは踊れるからそういうけど、できない人間にはまずそこからひっかかるんだよ。頭で覚えなきゃ手足をどうしたらいいかなんて分からないじゃないか。だいたい、ひとが踊っているのを見て覚えろっていうこと自体が無理なんだよ。そうしてきみたちはしばらく言い合い、互いに少し不機嫌になって授業を終えるというのが、定番になっていた。無論、ほんの少し時間が過ぎれば、きみたちは簡単に仲直りをしたのだが。

とはいえ、きみは何しろ力技の人間だった。休日に都心に出て、講義でやっているのと同じダンスが載っている教本を探しだすと、翌週の授業を三日休み、ほとんど不眠不休でステップを暗記したのだ。――きょうは完璧だよ。寝不足でくまのできた目で、きみは彼女にいう。不敵に、というよりむしろ不審者のように笑うきみに若干引きつつ、そうなんだ、と彼女は答える。けれど、ペアを組んで踊り始め、踊り終えると、彼女はこらえ切れないように身をよじって笑い出した。なぜかきみまで一緒に講師から注意を受け、まじめに踊ったつもりのきみは憮然とした表情のまま小声で彼女に問う。――なんだよ、ちゃんと間違えずに踊れたろ。完璧だったじゃないか。まだ目じりに笑みを残したままの彼女は、同じように声をひそめて答えた。――確かにステップは間違えなかったけどさ、でもあれじゃロボットだよ。ギクシャクガタガタ、まるで私たちの操る人形みたい。そうして、自分の言葉に再び吹きだし、慌てて口を押える。最初はむっとしていたきみも、そんな彼女を見ているうちにふと可笑しくなり、一緒に笑いだしてしまっていた。

……いつの間にか、バンドの若者たちはいなくなっている。そろそろ夕刻が近づき、行きかう人びとのまとう空気もさっきまでとは異なり、家を感じさせるものになっている。きみも立ち上がり、誰もいない家へと戻っていく。結局のところ、彼女はあまりに繊細だった。だからこそ鋭敏な感覚できみには感じ取れない流れを感じ取り、それに合わせて踊ることができたのかもしれないが、それが幸せなことだったとは、きみにはどうしても思えない。無論、ギクシャクガタガタ、力任せにしか進めないきみが、彼女より幸福だったということでもない。そもそもきみは、前に進んでいるのかどうかすら分からなくなっていた。

近所のコンビニで牛乳を買い、アパートに帰り、階段を上る。ポケットから部屋の鍵がひとつだけぶるさがっているキーホルダーを取りだし、鍵を開け、扉を開く。薄暗い部屋。微かにかび臭い匂い。カロリーメイトと牛乳を冷蔵庫にしまう。もう、あとすることは何もない。

彼女は、きみとは対極にいるひとだった。きみにはついに彼女を救うことができなかった。いや、誰かを救うことなど、誰にもできないことなのかもしれない。それでもきみは、きみに欠けたものを持ち、きみにあるものを持たなかった彼女のことを、どうしてだか、いちばん近い仲間だと思っていたし、いまでもそれは変わらなかった。あのとき覚えたステップを、いまだにきみは忘れないでいる。薄暗いなか、きみは記憶をたどりつつそのステップを踏む。向かにいるのは、もう年を取ることのない彼女の幻。――見ろよ、この完璧なダンス。心から楽しそうに、彼女が身をよじって笑う。――ギクシャクガタガタ、まるでロボットみたいだよ。ほら、もう一度やろうよ。教えてあげるから。

スイッチを入れる。部屋に白く人工的な光が満ちる。漠然とした空腹を感じて、きみはまだ冷えていないカロリーメイトを取り出し、無表情に食べる。その不味さが、まだ彼女のところへ行くときではないと、きみに教えてくれる。

いつかきみの乗る舟

まだ誰も乗っていない始発電車。薄暗い窓ガラスに荒んだ顔をした男が映っている。何かを諦めたような、すべてを見下したような、自らを嘲笑しているような目つき。きみは自分の顔から目を逸らす。眺めていて楽しいものではない。もっとも、眺めていて楽しいものなど、既にはるか以前からきみは失ってしまっていたけれど。

日が昇るにつれ、外は徐々に明るくなっていく。もう、窓ガラスに自分の顔は映らない。きみは少しだけほっとして顔を上げる。窓の向こうに流れる景色は、いつしか郊外のものへと移り変わっていく。ごとん、ごとん、と電車はやけに静かに走り続ける。車両に人影はわずかしかなく、どこか霞んで見える。誰も居ないホームに立ち電車を待っていたのはほんの今朝方のことだったような気もするし、何年も昔のことのようにも思える。どのみち、きみをあの世界に繋ぎとめていたすべてをぼんやりとしか思い出せないきみには、何の関係もないことなのかもしれなかった。――つまりこれは……。きみは呟くが、別にその後に続けたい言葉があったわけではない。空腹も眠気も感じないまま、やがて夜が訪れ、再び朝がくる。電車は静かに走り続け、きみは座り続ける。

けれども、やがて電車はとある駅へと到着した。くぐもったアナウンスに耳を澄ませれば、どうやらここが終点らしい。晴れわたっているのに妙に寒々しいホームへときみは降り立つ。駅には改札もなく、ホームの反対側には手すりがあり、その向うの眼下には真青な海が拡がっている。狭く急な階段が海へと続き、他の乗客たちは声もなく並び海へと向かって下りていく。古びて罅の入ったコンクリートを踏みしめ、きみも彼らのあとについていった。

覆うように茂った木々の下を歩き続け、やがて階段を下り切れば、そこはもう突然に砂浜だ。海風は強く、けれども波は穏やかに寄せている。幾艘かの小舟が沖に向かって進んでいくのに気づき、ふと周りを見回せば、さっきまではいたはずの乗客たちはもう誰もいない。波打ち際には一艘の舟が残されており、老人がその傍らに佇んでいた。――あんたも乗るのかい。どこかで見たような気がするその老人をぼんやりと眺めつつ、きみは答える。――どうしようかな……。この舟、どこに行くんですか。老人は苦笑したようだった。――そんなもの、私が知るはずがないだろう。そうして、あんたが知らないはずがないだろう。そんなものなのかもしれないな、ときみは思う。そしてふいに、自分でも思いがけず笑みを浮かべる。――どうした、何か愉快なことでもあったのかね。特に興味もなさそうに訊ねる老人にきみは言った。――いえ、たいしたことでもないんですが……。ぼくはね、子供のころ、船乗りになるのが夢だったんですよ。父がそうだったからっていうだけの、単純な話ですけどね。船乗りになって世界中を旅したかった。結局、そんなものは夢でしかなかったけれど……。嘘みたいな話ですけど、世界中を旅した船乗りの息子がこの国を一歩も出たことがないんです。でもこんなときになって思いがけず舟に乗れて、海の向こうの向こうのもっと向こうにまで行けることになるなんてね。それが少し可笑しくて……。よくよく考えてみれば、可笑しくも何ともないのだが、きみは気が抜けたように俯き、ふふふ、と息を漏らすように笑う。

――むかつくな、あんた、凄えむかつく。突然、押さえてはいるが激しい怒気をこめた言葉を叩きつけられ、きみははっと顔を上げる。そこには先ほどまでいた老人の姿は見えず、少年がひとり、きみを鋭く睨みつけていた。――この舟にあんたは乗せてやらないよ。これは俺の舟だ。昔の夢だ? 莫迦らしい。腐ったやつには腐ったやつにふさわしい行き場があるんだ。さっさと失せろ。その小さな子どもにきみが反論できなかったのは、その子の声にこめられていた蔑みのせいではなかった。そうではなく、そこに隠しようもなく滲みでてしまっていた鋭い悲しみが、きみを黙らせたのだ。――この舟は、楽になりたい、いまから逃げたいなんて思っているやつが乗れるような舟じゃないんだ。どうしても乗りたければ、もう一度、初めから自分で作り直せ。

急に強い風が吹き、潮が強くきみの顔を打つ。思わず両腕で顔を守り、ふと我に返れば、きみは再び電車のなかにいた。正面の薄暗い窓ガラスには、荒んだ顔をした男の顔が映っている。よく知っているその顔には、けれどもいまはただ困惑だけが貼りついている。走行音はうるさく、さらにそれを圧するほどの音量で、車掌が次の停車駅を告げていた。きみの降りる駅だった。

きみはもう誰も居ない駅に降り立つ。どうやら終電だったようだ。眠そうな顔をした駅員の脇を通り、きみは駅の外へと出る。風は冷たく、町は既に眠りに沈んでいる。

――いつかさ、ぼくも自分の船に乗って、父さんみたいに世界中を冒険して周るんだ。記憶の底で、まだ幼いころのきみが楽しそうに話しているのが聴こえる。――ぼくだけの船で、ぼくだけの旅! あ、でも父さんは乗せてあげよう。記憶ではないどこからか、もう誰のものか思い出せない、けれども懐かしい誰かの声が聴こえる。――そうか、それは楽しみだな。そんな日が来るといいな。――絶対来るに決まっているよ。じゃあ、約束しようよ! むきになった子どもの声と、誰かの暖かい笑い声。

暗い道で立ち止まり、きみは呟く。――そんな日が来ると、いいな。

ただ、何かが。

力任せに投げた小石が強く川面を弾き、向こう岸まで飛んでいく。隣にいた彼女が呆れたように笑い、そうじゃないよ、といって軽く小石を投げると、それは美しい波紋を五つ六つと残し、小さな音を立てて水底に沈む。きみは不貞腐れたように川縁に腰を下ろす。――そういう器用なやりかたっていうのは肌に合わないんだよ。きみの隣に座った彼女は頷き、真面目な顔をしていう。――きみがそういう性格なのはよく分かっているけど、でもそれだといろいろ大変だよ、きっと。きみは顔をしかめ、手近にある小石を川に放った。――そんなこと言われなくても分っているよ。ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。彼女は少し寂しそうに笑い、――それはそうだけどね、というと、きみの真似をして、やる気もなく小石を川に投げ込んだ。波紋が波に消えると同時に、向うからきみたちを呼ぶ声が届く。そろそろ夕食の準備を始める時間だった。

きみたちは大学時代同じサークルにいた者同士で、昔合宿で毎年訪れていた寺に再び泊まりにきていた。山間の澄んだ川を見下ろす位置にある寺で、きみたちは学生時代、地元の子どもたちに人形劇の公演をしにきていたのだ。大半が就職をしているなか、きみはいまだに学生を続け、彼女はバイトで暮らしていた。だからどうだということもなかったが、どことなく肩身が狭いのもまた確かで、いつのまにかきみと彼女は他のみんなから離れ、ひっそりとやり過ごすことが増えていた。皆が集まるのは二年ぶりだったが、けれどもその二年は、先の見えない学生時代という特別な時期を共有していた仲間たちを別つのには十分だったのだろう。仕事の苦労話や車のローンの話などを自然に語る彼らの間に、きみはもうどうやって入ったら良いのか分らなくなっていた。彼女も、きっとそうだったのかもしれない。たかだか二泊三日の旅行だったが、きみたちは自然と二人でいるようになっていた。傷を舐めあう、などということではなく、単に、極かすかにだったとしても、共有しあう何かがあると思えたからだろう。

対人恐怖症で不器用で壁にぶつかったらいつまでもぶつかり続けるようなきみとは違い、彼女は人当たりもよく、器用で頭も良かった。そんな彼女がなぜいまだに就職もせずその日暮らしを続けているのか、本当のところは、きみにはよく分からなかった。二日目の夜、宴会の盛り上がりから離れ、きみと彼女は縁側に出て風にあたっていた。田舎の夜空には恐ろしいほどに星が溢れている。吸い込まれてしまうような気がして慌てて目を逸らし、きみは隣にいる彼女を見る。所在なさ気に団扇をもてあそんでいた彼女が、きみを見返す。きみは気になっていたことを彼女に訊ねてみた。――……あのさ、俺は、もうどうやっても卒業とか無理だと思うんだよね。実際、大学へ行っただけで息が詰まって吐きそうになるんだ。恥ずかしい話だけどさ。彼女は悲しそうに、川を挟んだ向かいにある暗い山なみに目をやる。――でもきみはちゃんと卒業もしたし、成績だって悪くはなかった。それなのに……。――それなのに、何? 彼女はいつの間にか俯いたまま微笑んでいた。何だってきみは俺と同じ側にいるんだ? きみは、その疑問を口にできないまま、いや、何でもないよと誤魔化し、昨晩皆でやった花火の残りを持ってくると、彼女とふたりで線香花火をした。

もう、それも十数年昔の話だ。きみはいまだに何者にもなれず、既にあのころ時間を共有していた誰とも連絡をとることはなくなっていた。きみはある女子大で、ほんの幾つかの講義を持つようになった。何人かの生徒はきみの話を聴き、何人かの生徒は教室に入るなり後ろの方の席で輪になり、あとはひたすらお喋りにいそしんでいる。それはそれで、きみにはどうでもいいことだった。講義を聴いている学生の迷惑にならない程度なら、私語をしようが携帯を眺めていようが、それは本人の選択だときみは思っていたからだ。結局最初の大学を中退したきみには、講義をまじめに受けるよう彼女たちに働きかけるいかなる理由もなかった。

けれども、時折、きみは叫びだしそうになる。彼女たちの、生きていることに対する盲目的で無根拠な自信が、きみを苛立たせる。いや、それは苛立ちではない、嫉妬ですらない。それは恐怖だった。講義の間、ふと、きみは急激な吐き気に襲われる。きみは彼女たちが恐ろしかった。蜂のようなざわめき、光があることを当然のように受け入れるその笑顔が、きみには途轍もなく恐ろしく思えたのだ。けれども、震える足を力で抑え、きみは講義を続けた。

きみよりも器用で、きみよりも人当たりがよく、きみよりもはるかに頭の良かった彼女は、けれどもきみよりも早く、この世界から退場することを選んだ。いま、きみには何となく分る気がしている。いまだに留まり続けているきみは、要するに、それだけ鈍く、それだけ愚かだったということなのだ。――ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。驚くほど疲れきった声で、きみは自分に語りかける。

線香花火をすべて燃やし終えたあと、きみと彼女は夜の川辺へと降りていった。小さく浅い川は、けれど夜に沈み、あまりに黒く深い。それでも彼女はスカートを膝まで上げて軽く縛ると、ばしゃばしゃと水を撥ねさせ水の中へと入っていく。危ないぞ、というきみに柔らかく光を放つような笑顔を向け、大丈夫だもん、と子どものようにいう。そしてふいに、真剣な声音できみに訊ねる。――ねえ、何だかこれって、時間の流れみたいだよね。きみは無駄に堅く縛った靴紐を解きながら聞き返す。――時間の流れ? どういうことさ。彼女は直接は答えず、さらに問いを重ねる。――川上と川下、どっちが未来で、どっちが過去だと思う? 時間が流れるものなら、川上が過去で、川下が未来。でも、私は逆の気がする。水に流されて消えていくのが過去で、流れに逆らって進むのが未来なの。私は、きっと流されるだけだな。彼女の声が遠ざかる気がして、きみは慌てて靴を脱ぎ捨て、川に入る。あっという間に、ジーンズが重く水を吸う。川のせせらぎに混じり、どこからか彼女の声が聴こえてくる。――きっときみなら進めるよ。いまは立ち止まっているだけのように思えても、きっと、進める。

それが、きみの記憶に残る、最後の彼女の言葉だ。旅行から戻った後も幾度か彼女に会ったが、いまでも覚えているのは、あの夜の彼女の声。彼女が過去に消えてしまったのか、あるいは先に未来へと行ってしまったのか。どのみち、きみが独りで残されたことに変わりはない。ふと、教室が静まり返っていることに気づき、きみは我にかえる。学生たちが、きみを薄気味悪そうに、あるいは莫迦にしたような笑みを浮かべて眺めている。きみは何事もなかったかのように講義を再開する。

あのときの黒い川のただ中に、きみはいまでも立ち竦んでいる。恐怖をこらえ、吐き気をこらえつつ、きみは流れていく水を感じている。

生きている限りぼくらには

始発の下りに乗り、三日ぶりの家路につく。徹夜続きのせいか動悸がおかしく、うまく眠りに潜りこむこともできないままに地元の駅へ着いてしまう。ホームの自販機で冷たい缶コーヒーを買い、だらしなくネクタイを緩め、だらしなくベンチにもたれる。それがぼくの、数少ない息抜きのひとときだ。どのみちアパートに戻ったところで、埃の積もった床と冷蔵庫のなかの腐りかけの牛乳以外に、ぼくを出迎えてくれるものもない。ひたすら過酷な労働が続くだけの職だから、二年を過ぎたころには同期のほとんどが辞めていた。独り暮らしの家ではもちろん、会社でも私的な会話を交わすような相手はいなかったけれど、それが気楽でもあった。

――まあでも、それもそろそろ限界かもしれないよなあ。最近、独り言が多くなった。甘いだけの缶コーヒーを啜り、ホームの天井を見上げる。――ほんとうに、そう見えるよ。あんまり無理をしたらだめだよ。突然隣から声が聴こえ、慌てて顔を向けると、そこにはいつの間にか若い女の子が座っていた。しばらく驚きのあまり声もでないままその子を見つめていたが、ぼくの顔をにこにこと眺めているその子を見ているうちに、ぼくの心がふと和んだ。どこかで、納得している自分もいた。――こんにちは。いや、おはよう、かな。とりあえず挨拶をしてみる。彼女もにっこりと笑い、――おはよう。と挨拶を返す。そうして、ぼくらはしばらく、まるで旧知の友人同士のように、どうということもない雑談を交わした。

やがて向かいのホームに出勤するサラリーマンが目につき始めるころ、ぼくは立ち上がり、彼女に別れを告げる。――ありがとう。おかげでいい気分転換になったよ。彼女は、私も楽しかったよと答えてから、気遣わしげに尋ねてきた。――ずいぶん疲れているみたいだけれど、きょうはお休みの日なの? ぼくは苦笑いを浮かべる。――いや、家に戻って二、三時間気を失って、目が覚めたらシャワーを浴びて着替えて、そしてすぐにまた会社へとんぼがえりさ。彼女は少し寂しそうな表情をしていう。――そんな生活を続けていたら、身体を壊しちゃうよ。深刻さというものにはもう耐えられなくなっていたぼくは、わざと軽薄に混ぜ返す。――なんと、幽霊に健康の心配をされてしまった。彼女はびっくりしたように目を見開く。――気づいていたの? ぼくは思わず笑ってしまった。――そりゃそうだよ。そもそもきみ半透明だし。彼女は慌てたように胸の前に手を組み、上目遣いにぼくを睨む。――いやいや、そういう意味じゃないし。けれどもそれは彼女の冗談だったようだ。表情を緩め、くすくすと笑いだす。――やれやれ。じゃ、本当にもう帰らなきゃ。――うん。しっかり休んでね。ありがとう、と答え、ぼくは改札に降りる階段へ歩いていく。下りホームにも既に幾人かのサラリーマンがいて、ぼくを胡乱気に眺めていた。よれよれのスーツにぼさぼさの髪。寝不足の充血した目で独り言を呟いているとなれば、ぼくだって薄気味悪く思うだろう。けれども、そんなことなど気にならないくらい、ぼくは気分が良かった。アパートの部屋に辿りつき、敷きっ放しの布団に倒れこむとそのまま意識を失う。夢も見ない真暗な眠りのなか、なぜか懐かしい匂いに包まれていた記憶だけが微かに残った。

それからも相変わらずの日常は続いた。家に帰れるのは週に二回もあれば良い方で、激務に耐えかねたチームのメンバーはどんどん入れ替わっていった。激務であることはぼくにとっても同じだったが、けれどそれは同時に、何も考える必要がないということでもあった。増え続ける預金残高に比例して体調は悪化していったが、それすらも、ぼくにとってはどこか心地よさを伴うものだった。要するに、逃げていたということなのかもしれない。それでも、たまに家に帰れるとき、地元の駅のホームで幽霊の女の子と話す時間だけは、本当の意味で心が安らぐ時間だった。ぼくの身体を心配する彼女の言葉は適当に聞き流し、彼女とどうということのないお喋りをするのがぼくは好きだった。生前の記憶をすべて失っていた彼女は、自分がなぜ幽霊になったのかも分かっていなかった。――でもさ、やっぱり何かこの世に心残りがあるから、きみはここに居るんじゃないの? 何度目かになるその問いに、やはり彼女は首を傾げるだけだった。――そうなのかもしれないけれど、でも特に何も思い当たらないのよね。いまだって、あなたのことが心配だっていう以外には気がかりもないし……。――いやまあ、俺のことはいいよ。すると彼女は怒ったようにいう。――良くない。あなた、自分の顔、最近鏡で見た? まるで骸骨みたい。私よりもよっぽど幽霊みたいだよ。失笑するぼくの足を、彼女はひとつ空けた隣のベンチから足を伸ばして蹴ろうとする。もちろんそれは、ぼくを素通りするだけでしかない。半透明の彼女は、全体的にくすんだ白。けれど不思議なことに、頭のなかで想い起こすとき、全体が灰色で塗り潰されたぼくの生活の中で、彼女と過ごすその時間だけは、微かに明るく色づけられていた。

ある朝、いつものようにぼくはホームで彼女に会う。けれどベンチに背を向けたままホームの端に立つ。――そんなところにいたら危ないよ。そうにいう彼女には答えず、呟く。――こうやってさ、仕事仕事で自分を追い込んでいけばいろいろ思い出さずに済むかなとか思ったりもしたけれど、当たり前だけどさ、なかなかそうはいかないよね。振り返って、不安そうな顔をしている彼女に微笑みかける。――俺も、きみのところへ行けば、もう何も思いださないでいられるのかな。そうしてきみと……。言いかけたとき、ふいに彼女がぼくに駆け寄り、ぼくの顔を、ホーム中に鳴り響くほど本気で平手打ちをした。彼女は泣いていた。――馬鹿じゃないの! 死ぬなんて馬鹿よ。大馬鹿よ! 彼女の泣き声と頬の痛みで、ここしばらくずっと靄がかかっていたいたような頭が、急にすっきりしたような気がした。ぼくは妙に晴れ晴れしく笑ってしまいながら彼女に答える。――死ぬなんて馬鹿だって死んだ人間に言われてもなあ。第一、いまきみに引っ叩かれたとき、俺、ホームから落ちそうになったんだけど。彼女は慌てたようにごめん、と謝り、泣き顔のままぼくと顔を見合わせると、そのまま笑いだしてしまう。ぼくらはそのまま、隣り合ってベンチに座る。そのときはじめて、ぼくらは間を空けずに座っていた。彼女は真面目な顔をするとぼくにいう。――あのね、生きることは義務なんだよ。生きている限り、みんな生きなくちゃいけないんだと私は思う。私はあなたに生きていて欲しいと思う。死んだひとはみんな、きっと、生きているひとに生きていて欲しいと思っているんだよ。ぼくは苦く笑う。――勝手だな。――そう、すごく勝手だよ。でもそれは死んだ人間の権利で、そうして生きている人間の義務なんだと私は思うな。ぼくはそっと、彼女の手に自分の手を重ねる。もちろんその手は、掠ることもない。――さっきさ、きみ、俺に触れたよね。触ったっていうか殴ったよね。彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめる。――だからごめんってば。でもほんと、言われてみると不思議ね。どうして触れたのかな。――どうせだったらさ、あのとき、きみにキスでもすれば良かったよ。彼女はふいに優しく微笑み、ぼくのほうが逆に恥ずかしくなってしまう。――バカね。そういってぼくの額を突く彼女の指は、もちろん、ぼくに触れることはなかった。

しばらくして、ぼくは会社を辞めた。無駄に溜まった貯金を使って、もう一度大学へ行くことにしたのだ。もう一度、ぼくはすべてをやり直そうという気持ちになっていた。最後の日、会社の若手たちが無理矢理時間を作り、ぼくの送別会を開いてくれた。意外にぼくは、彼らに好かれていたらしい。三次会までつきあい、別れ際、彼らにくれぐれも無理はするなよと伝える。若い連中は笑って、先輩じゃあるまいし端からそんなつもりはないですよ、と言っていた。そのドライさには苦笑するより他なかったが、おかげでそれほど心配せずに去ることができた。

最終電車に間に合い、地元の駅に着く。どこかで予想していたが、誰もいないホームには彼女が独りベンチに座っていた。ぼくはいつものように缶コーヒーを買い、彼女の隣に座る。――あのね、結局最後まで、私は自分が誰なのか、何のために幽霊になったのか思い出せなかったけれど、でも、何だかもう、やるべきことをやったっていう気がするの。――……うん。――でね、次の電車に乗ろうと思うの。それに乗れば、あの世っていうのかな、とにかく私が本来行くべきだったところに行けるから。どうしてかは分らないけれど、でも分るの。――……うん。彼女は清々しいように、けれどどこか寂しげに笑う。――何だか、とっても楽しかったな。本当にありがとうね。ぼくは一瞬上を向いて瞬きをする。少し滲んでいた風景を、無理矢理もとに戻す。――やっぱりあのとき、キスでもしておけばよかったな。――……ほんと、バカね。そうしてぼくらは、つなげない手を黙ってつないでいた。

やがて、来るはずのない電車が、音もなくホームに入ってくる。彼女は立ち上がり、開いたドアの前まで歩いていくと、くるりと振り返って見たこともないほど素敵な笑みを浮かべた。――じゃ、さよなら。ぼくは座ったまま、笑顔で軽く手を振る。――さよなら。また会おう。彼女の目に涙が溢れる。

彼女が電車に乗り、発車のベルが鳴ったとき、ぼくは思わず声をかけていた。――あのさ、本当は……。けれどもそこで扉が閉まり、彼女とぼくを隔てる。もの問いたげな彼女に、何でもないというように首を振る。互いに笑みを交わす。そうして、電車はどこかへ去っていった。――本当は、俺、きみのことを良く知っていたんだ。誰よりも良く、さ。これは独り言。そうして、最後の独り言にしようとぼくは思う。

それからぼくは大学をやり直し、幾度か引越しを繰り返し、何人ものひとと出会い、そして別れた。電車に乗ってどこかへ向かうとき、ふと、これがこのまま彼女のいるところへ通じていたらな、と想像するときもある。けれども、まだそのときではない。ぼくは彼女と約束をした。生きている限り、生きている人間には生きる義務がある。それはあまりにも身勝手な死者の願いではあったけれど、その身勝手さこそが、きっと死者と生者を結ぶ愛なのだと、窓の外を流れる景色をぼんやり眺めながら、ぼくは考える。目的地に着き、ホームに降り立つ。眼が痛むほど眩しい日差しと熱せられたコンクリートから立ち上る熱気。汗が不快に背中を流れる。世界が割れるような蝉の声。

生きている限り、ぼくらには生きる義務がある。大丈夫だよ、というように、いまはもういない彼女に、ぼくはそっと手を振った。